昭和13年頃の地図
下新とは

博多祇園山笠は七つの流れがあります。
そのひとつが「大黒流」です。
「大黒流」が12の町で運営しています。
その12ヶ町のひとつが下新です。正式には下新川端町と言います。
戦前から商人の町として栄えていましたが、昭和20年6月19日の福岡大空襲でほとんど焼けてしまいました。
焼け跡の中、先代たちの努力の結果いち早く商店街を復興し昭和30年〜40年代は福岡の中心商店街として隆盛を極めていました。
しかし、徐々に天神地区に重心が移り、客足がだんだん減っていき、閉店する店や空き地が目立ちだし、再開発構想が浮上しました。
その後紆余曲折の末、20数年後に再開発が行われ、今の「博多リバレイン」が完成したのです。
木村カバン店は当時は土居町にありました。(当然、土居流でした。)
祖父の木村貞次と
     叔父の正昭
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昭和37年頃の地図
袖若とは

下新の町内があった場所がちょうど昔の「袖の港」(下記参照)にあたることで「袖の港の若衆」を短くし「袖若」と名付け下新のハッピや提灯に名前を入れて使っています。


袖の港とは

12世紀ごろ、平清盛は外国貿易に熱心で、博多湾頭に人工港を設け、出船入船の便宜をはかった。南宋(なんそう)(現在の中国)をはじめとした海外から大きな船が出入りし、貿易(ぼうえき)によって港はとても栄えた。その港は女性の振袖の形に似ていたことから「袖の湊」と名づけられ、人工島は沖の浜と呼ばれて博多の港町に発展していった。
博多古図によると、人工島は一本の橋で冷泉の津につながれ、そこには櫛田神社があり、さらに一本の橋で住吉神社へ至る。このあたりが当時の博多の中心街だといっていいのだろう。