File13
  YAMAHA TA125 1973 市販レーサー フルスクラッチ作品

 







     写真はレストアされた実車TA125です。
     タイヤが前後とも当時のものとは異なるようです。



はじめに・・・・・

 昨年から持ち越していた、宿題のTA125の製作に取りかかることができました。実は1970年代のマシンについてはあまり知識も資料も持ち合わせていません。仕事の関係もあってバイクとのかかわりに少し距離を置いていた時期でした。
そんなことでモデラークラブ合同作品展から懇意にして頂いている静岡市在住のTさんからずっと前にたくさんの写真資料などをお預かりして、次回はヤマハの小排気量車をとお約束していたのですが・・・・・
 そのお手紙のなかで「少し細部が分り難いでしょうが」と書いてありましたが、まあ何とかなるだろうと図面を引くために手持ちの図書を徹底的に調べました。残念なことに68年〜76年の期間の雑誌資料が転居、転居で残っていませんでした。
やはり基本の数値データを準備しないとスケールモデルではないと勝手な持論を言い訳にして先送りしていました。・・・・・・しかしホイルやタイヤも準備できているのに、そして大好きな市販レーサーですからネットはもちろん、ともかく資料収集に全力投球をしました。
  製作記モデリングノートは、模型工作の手法だけで終始するつもりはありません。折角集めた情報をもとにして、テーマにした実車の時代背景やサイドストーリーもできるだけお伝えして1:1の世界に思いを馳せられるようにと、いつも前置きが長くなっています。
 今回、補完する追加資料をお願いするなかで、Tさんと同じように熱烈なヤマハフアンのSさんに実車ヒストリーの寄稿をお願いしました。お寄せ戴いた貴重なフイルムと素晴らしい内容の全文をご紹介してスタートします。
 市販期間は2年と短いものであったTA125をさらに詳しく知ることができました。改めてとても奥行きの深い小さなマシンに脱帽しました。
                          柴田 一弥

「ヤマハ125ccロードレーサーと
  ケント・アンダーソン(Kent Andersson)」
 
  特別寄稿

 ヤマハが初めて世界選手権ロードレース(WGP125ccクラスに参戦したのは、1961年の第3戦フランスGPだった。空冷単気筒ツインロータリーバルブ吸気(クランクケースの両側にキャブレター装着)エンジンを搭載したRA41は、
野口種晴のライディングで8位となったがトップからは2周遅れ(レースは、13周)だった。その後1963年のRA75まで、空冷単気筒エンジンを改良したが
充分な戦闘力が得られず、1964年に空冷並列2気筒ロータリーバルブ
吸気エンジンを塔載したRA97が登場した。
RA97は、この年の第5戦ダッチTT(オランダ)にスポット参戦し、
フィル・リードがホンダ(2RC146、4ストローク4気筒)のジム・レッドマンと
激しいトップ争いを行い2位に入賞した。

 翌年の1965年には、RA97のエンジンが水冷化され戦闘力を増した。
これがヤマハオートバイ初の水冷エンジンだった。この年は、スポット参戦で
あったが第5戦マン島TTでフィル・リードが優勝を果たした。
これは、ヤマハのマン島TTレース初勝利であった。
2
位は、ホンダ(4RC1464ストローク4気筒)のルイジ・タベリ、
3位はヤマハ(RA97)のマイク・ダフだった。第6戦ダッチTTでは
マイク・ダフが優勝しRA97の高い戦闘力を示した。

 1966年は、このRA97でフル参戦したビル・アイビーが第1戦スペインGP
始め4勝(全10戦)を挙げ、ホンダ(RC1494ストローク5気筒)のルイジ・タベリ
とチャンピオン争いをしたが惜しくもランキング2位となった。
1966年の125ccライダーチャンピオンは、ホンダのルイジ・タベリだった。)

125ccクラスは、多気筒化時代となり、ヤマハも1967年に水冷V4気筒
ロータリーバルブ吸気エンジンを搭載したRA31を登場させた。
ミッションは9速で、最高出力は40psを越えたと言われる。
 この年、ビル・アイビーが8勝(全12戦)を挙げライダーチャンピオンを獲得、
フィル・リードも2勝を挙げ年間ランキング2位となり、
ヤマハはWGP125ccクラス初となるメーカーチャンピオンを獲得した。

 1968年には、更に性能向上と軽量化が施されRA31Aとなった。エンジン
回転数は、17,000rpmに達したと言われる。この年、フィル・リードが
6勝(全9戦)を挙げライダーチャンピオンを獲得、ビル・アイビーが
2勝を挙げ年間ランキング2位となり、ヤマハは2年連続して
メーカーチャンピオンを獲得した。

 その後、レギュレーションの変更や日本メーカーのWGP撤退もあり、
ヤマハも1969年よりファクトリー参戦を中止したが、先行開発の形で
レース活動は継続された。

 125ccレーサーは、レギュレーションの変更(1970年より2気筒/6速以下)
に合わせ1969年に空冷並列2気筒ピストンバルブ吸気エンジンを搭載した
YZ623が登場した。このエンジンは、市販車の125ccツインAS1
(ボア・ストローク 43×43)がベースで、ミッションはクロスレシオの5速に
変更されていた。また、フレームやブレーキも市販車のパーツをベースに
改造されたものだった。

 1973年にヤマハ初の125ccクラスの市販レーサーとして発売された
TA125は、市販車の1971年型AX125AS3)にキットパーツを組み込んだ
モデルとして知られるが、そのチューンアップ仕様は、YZ623がベースに
なっていると考えられる。クラブマンレーサーとして登場したTA125は、
2年間販売され多くのアマチュアライダーを育てたが、TZ250/350の様に
水冷化されることはなかった。


YAMAHA125cc RA41 1961


YAMAHA125cc YZ623A 1971
(M・WALKAER’S JYAPAN GP RACERから転載)


YAMAHA125cc YZ623C(水冷)




          Kent Andrsson
   「ケント・アンダーソンのWGP参戦記録」
   (1966〜1975年、全90レース、全18勝)
 初勝利1969年西ドイツGP250cc級ヤマハ
 最終勝利1975年フランスGP125cc級ヤマハ
      「参戦年度ごとの成績」
  年度    クラス   順位  マシンメーカー
 1966年  250cc  20位  ハスクバーナ
         350cc  25位  ハスクバーナ
 1968年  125cc  17位  MZ
         250cc   8位  ヤマハ
 1969年  125cc   4位  マイコ
         250cc   2位  ヤマハ
 1970年  250cc   3位  ヤマハ
         350cc   4位  ヤマハ
 1971年  125cc   9位  ヤマハ
         250cc  14位  ヤマハ
 1972年   50cc  12位  クライドラー
         125cc   2位  ヤマハ
         250cc   7位  ヤマハ
 1973年  125cc  
 1位  ヤマハ
         350cc   6位  ヤマハ
 1974年  125cc  
 1位  ヤマハ
         250cc   8位  ヤマハ
 1975年  125cc   3位  ヤマハ


    
              YZ623CとK・アンダーソン
 1970年代前半よりヤマハのファクトリーライダーとして活躍した
ケント・アンダーソンは、194281日スウェーデン生まれで、
19
歳の時に250ccのモナークで初めてスウェーデンのナショナル
チャンピオンシップレースに参加した。その後、250ccのブルタコに乗り
勝利を重ねた。
1965年にスウェーデンの250ccナショナルチャンピオン
シップに勝利し、1966年に彼自身が改造したハスクバーナで
WGPに初挑戦した。
 その後、ヤマハ250cc市販レーサーで参戦して実績を積み1968年の
WGP1戦西ドイツGP3位に入賞した。
1969年もヤマハ250cc市販レーサーを駆り、第2戦西ドイツGP
WGP
初優勝を果たした。またその年は、ケル・キャラザース
(年間チャンピオン/ベネリ)やサンチャゴ・ヘレロ(年間3位/オッサ)と
激しいトップ争いを行い、年間ランキング2位となった。
その活躍で1970年に、ロドニー・ゴウルド(1970250ccライダーチャンピオン)のチームメートとしてヤマハレーシングチームに加入し、
その年の250ccクラスで年間ランキング3位となった。
 
1971年は、ヤマハの125cc開発ライダーとしてWGPに参戦した。
エンジンは、空冷のままだがミッションが6速に変更され、フレームも
エンジン位置の変更やスイングアームの延長が施され、
フロントフォークやブレーキもファクトリー仕様となったYZ623Aを駆り、
2戦西ドイツGPと第8戦スウェーデンGP3位に入賞し、
年間ランキング9位となった。
 
1972年は、ボア・ストローク始めエンジン仕様の見直しと水冷化が図られ、大幅に戦闘力をアップしたYZ623Cを駆り、第6戦ユーゴスラビアGP
優勝するなど3勝(全13戦)を挙げ、年間ランキング2位となった。
1971&1972年の125ccライダーチャンピオンは、デルビのアンヘル・ニエトだった。)

 ヤマハのファクトリー参戦が復活した1973年は、このYZ623C に改良が加えられ、乾式クラッチを装着したOW15となった。このOW15を駆ったK.アンダーソンは、1973年の第1戦フランスGPから4連勝するなど圧倒的な強さで5勝(全12戦)を挙げ、自身初のライダーチャンピオンを獲得すると共にヤマハに125ccクラス3度目のメーカーチャンピオンをもたらした

 1974年も好調を続け、第1戦フランスGPを始め5勝(全10戦)を挙げ、
2年連続して125ccクラスのライダーチャンピオンに輝いた。また、ヤマハも2年連続してメーカーチャンピオンを獲得した。
 1975年、K.アンダーソンは彼自身の改造でフロントブレーキをダブルディスク化し、セリアーニ製フロントフォークを装着したOW15で参戦し、第1戦のフランスGPで優勝したが、この年の優勝はこの1回のみで最終戦のユーゴスラビアGP4位に入り、年間ランキング3位となった。(1975年の125ccライダーチャンピオンは、モルビデリのパオロ・ピレリだった。)
 このユーゴスラビアGP33歳となったK.アンダーソンの最後のWGPレースとなった。ヤマハ125cc ツイン・ロードレーサーの歴史もここで幕を閉じる。(余談だが、この時期から日本メーカーは、WGPの最高峰500ccクラスに力を入れたため、125ccクラスはしばらくモルビデリやミナレリなどイタリアメーカーの活躍が続いた。)

 
WGPを引退したK.アンダーソンは、その後ヤマハヨーロッパのレーシングマシン開発に携わった。1977年にWGP350ccクラスのライダーチャンピオンとなった片山敬済が駆った、ヤマハTZ350 3気筒マシンの開発にも係わっている。WGP引退後も趣味としてスウェーデン国内のレースに参加し良い成績を収めた。また、オランダを拠点とし活動する「ヤマハクラシックレーシングチーム」のメンバーとして欧州で開催されるクラシックレースのデモランに積極的に参加していた。気さくな性格もあり多くのファンに親しまれたが、惜しくも病のため2006829日に他界した
                                
                                              2008年2月13日 





その他の貴重な写真は製作記のなかで順次掲載を予定しています
製作編は現在、図面出しがおわり簡単パーツを工作していますので、
3月1日から連載開始予定しています



                      
 3月1日  第1回  ホイルやハブ、下準備を  
TA125のベースマシンは1970年4月にヤマハスポーツAX125と
いう製品名で発売されました。発売価格は145,000円,
アップハンドルのついたロードスポーツ車で,排気管も形だけ
メガホンタイプというきわめてユニークなマシンだったようです。
この市販車にレーシングキットを組み込んでサーキット専用の
ロードレーサーがこのTA125として1973年5月から市販開始に
なりました。今度は価格も340,000円と倍以上になりましたが
カウリングや基本補修パーツも付属していましたからリーズナブルな
価格ともいえると思います。
簡単に性能比較(変化した数値)を掲げてみました。
当時の販売カタログを見ると面白いですね。公道走行車なのに
データとして「0〜400m17・5sec]とうたってあります。


 最高出力
 乾燥重量
 最大トルク
 キャブレター
 最高速


 点火方式




  AX125  
15ps 8500rpm
99kg
1.3kgm 
VM18SC
130kmh


バッテリー方式




  
TA125
24ps12500rpm
81kg
1・36kgm
VM26SC
175kmh以上


CDI方式



 長期間にわたってモーターサイクル模型を作っていると、
好きな工作、苦手な作業とか次第に色分けされてくるようです。
誰でもそうでしょうが。単純な基本作業はあまり意欲が
湧かなくなります。
そんな事で第1回は下ごしらえが中心になります。

最初のホイルつくりは、C社の新製品を使いました。
見てお分かりのように上部が未加工です。とても良くできた
部品ですが、ニップルの膨らみが角ばってバラツキがあるため、
旋盤にかけてヤスリやスポンジ研磨を使い徹底的に修正しました。
最終的に仕上げも極細コンパウンド、さらに金属磨きまで
多用してまさにピカピカに仕上げました。最後に超音波清浄器
につけて、ほぼアルミリムの感じを出しました。

超音波清浄器がアルミ色に変わる。これは思い込みだけかも知れません。わざわざ購入するのは如何でしょうか。?メガネ洗浄には威力を発揮していますが。・・・・・・・・
 簡単にまとめていますが、手順では最初にリムの側面を
仕上げて、それからスポーク(ニップル径)の孔を空けます。
ニップルの膨らみも完全でありませんし、合計36個の
正確な孔空け加工は大変です。材質が柔らかい分粘りが
出てきますから、ルーターヘッドを精密チャックに変えて
07mmドリル刃で低速でじっくり工作をします。折角処理した
側面にドリル刃で傷をつけない様に養生のためマスキング
テープを貼っています。さらにスポークの交差や向きを
表すため色ペンでマークして、工作に入ります。多分、
相当面倒な手順を踏んでるようですが、やはり途中「しまった」
と言わないため回り道をしています。

 さてホイルが出来てくると、順番ではハブの工作を
したくなります。同じように事前に糊付け作業と呼んで
2〜3日間放置しています。ここで素材について、
今回タミヤから新しく発売された2mm1・5mmのプラ板を
使うようにしました。前からお伝えしているように
輸入品E・G社に比べると硬いのですが、私のように
貼り合わせて削るという、ルーター作業が中心の工作には、
金属用の研磨ヘッドが使えて作業がとても楽のような感じです。
まだ全てのパーツを加工していないので早計ですが。

写真は1・5mm厚の平板に03mm裏打ち加工したものです。
僅か03ですが円の穴あけ加工したものが、キッチリと固定され
テーパー加工やスポーク穴の工作も楽になります。
当然、張り合わせた側面はパテ代わりに瞬間接着剤を染ませて断面はシャープにしておきます。
 上記で張り合わせた平板同士を円切り挟みで切り取り真円を
出します。中心車軸の穴は全て2mmで統一していますので、
慌てずに1枚ごと中心を出します。
(ホイル作業では最も大切な部分になります)
 その後でハブの外縁部分を厚さ09mmまで斜めに
削り落とします。この作業はヤスリでも良し、ルーターで
削りますと数分の作業です。
(ルーターは慣れが必要ですが、
砥石と回転数、そして素材がマッチしたら面白うように削れます。そして削りすぎて仕上げができなくなることがあります)

最初は金属ヤスリの大型で角度を確認しながら進められる
ほうが確実でしょう。30分もあれば仕上げのペーパーがけが
終わっているはずです。

このあと、38分割の定規(自作の冶具)を使って04mmの穴あけと面取り作業をします。
(写真左)またまた登場するオセロゲームの駒、
ブレーキの冷却フインの素材です。丁寧に真円を出しますが、
それでも僅かの誤差が出るようです。その防止のために
たくさんのガイド穴を用意しています。

(写真左下)

フロントフォークの精密な写真をTさんが用意されています。
チリアーニ風と当時のカタログに記載されていますが、
国産で助かりました。しかし簡単に出来るしろものではなく、
今現在下地つくりで準備しています。F・フオーク芯間の
正確な数字もわかりましたので、トップブリッジとの
併行作業になるでしょう。
(写真左)

これ何?
Fフォークのインナー
チューブに被る
ゴムカバーの工作途上です。
高さ6mm程度ですから仕上げて切断の手法です。
次回には形になっていると思いま
す。
C社から金属材質のクリップハンドルがあるのですが
若干形状が異なるため今回プラ材から作っています。
プラ工作の問題点は、フォークを通す穴を均一に空けるか
にあります。
やはり旋盤に頼らないと外形4・4mmのロッドに
3.6mm径の穴を空けるのは、難しいようです。
残る肉厚が04mmでその側面にプラセメントだけで
ハンドルバー(2mm)を貼り付けます。強度としては
あまり足しにならないでしょうが、1mmのプラロッドを
釘代わりに接着面に打ち込んでいます。
完全接着が完了していませんので、クリップ用の
締め付け部分は全く未工作です。

これまで同様に方法で既に30本くらいのハンドルを自作していますが、根元からポッキリの実例はありません。





右の写真はイタリアの著名なモーターサイクル月間誌
「MOTOCICLISMO octber 2006 page96に
掲載されたケント・アンダーソンの功績を偲ぶ記事を、
転載(S氏提供)したものです。
日本ではクラスチャンプになればそれなりの報道があると
思うのですが、意外にひっそりとしていました。









 準備の下ごしらえ
(例えばバックボーンフレームを予め曲げる。
トップブリッジ製作のための4X2X2・5のプラブロックなどが
いい調子で乾燥)
が順調に進んでいるようです。
今回の製作記は予定どおりにと、またもや悪い癖であたまもたげて
います。次回は3月上旬にお伝えします。




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