Tea room SPECIAL   雁の巣時代  第6部

 
49回2月6日

強者どもの夢の跡・・・・・
翌週、コースのあと片付けに出かけました。

11月竣工の鈴鹿サーキットの前哨戦が終わったと感じました。結果とすれば予定されている全日本グランリ戦の予選というような結果で終わりました。やはりチューナーPOP吉村が持てる経験と全知の限りを尽くしても市販ロードスポーツをベースに作り上げたスペシァルマシンであっても
、きわめて短い期間に大手メーカーに性能的に並ばれ、また何れは抜かれていく・・・・研究開発・人材・設備・ノウハウの蓄積など、当然かも知れません。POPには申し訳ないが二輪業界全体から見ると、またロードレースのその後の発展を考えるとむしろ良い結果とも言えるでしょう。
雁の巣時代を象徴するような田舎臭いお話を書いてきましたが、ロードレース揺籃期の出来事です。誰かが熱心に何かを始めて新しい取り組みをする事、すなわち原点であることに異論はありません。
何故、雁の巣のレースを偉大な草レースと名付けて、雁の巣時代を1962年までと区切ったのは、この年を境にして日本国内のロードレースが大きく変貌し大転換をしたからです。閲覧下さる皆さんや二輪スポーツの評論家の方々は随分乱暴な区切りと思われるでしょう。
しかし、これは係わった私の感情論ではありません。1962年11月鈴鹿サーキットで開幕された全日本GPのあとのロードレースの大きな枠組みをじっくり見ていくと納得されると思います。
タイトルが「雁の巣時代」ですから1963年以降には踏み込むつもりはありませんが、次回もう少し補足のため付け加えのお話をします。
                                        ・・・・・・つづく・・・・・・



50回2月22日

1963年から日本グランプリという名称で主催団体も二輪工業会で編成されるMFJが国内レース全般の運営を握って、MCFAJは一部のアマチュアのレース開催にシフトされていきました。当然、世界GPに向けて、ライダーの資格問題やメーカーの支援体制による新しいライダーのGP参画などを考える時、当然の展開だといえましょう。
また、走る側すなわち、これまでレースに参加してきたライダーも大きな変化に対応せざるを得なくなった事もあります。これまでは、ロードレースもオフロードも何でもこなせるライダー(言葉としては不適切ですがとても器用な乗り手)が異なるジャンルで活躍していました。
しかし、1963年以降二輪メーカーは(商用車は別)目的別に単機能を意図したマシンを開発してきました。したがってライダーも適性をより発揮できるレースの方向づけを選択し特化していく事が必要になってきました。
50年代後半からいろんなレースで活躍していた著名な国内ライダーたちは、63年以降は、結果としてロードレース、モトクロスときちんと切り分けされて本来の得意分野で実力を発揮し、二輪スポーツ界の発展に大きく貢献しています。このような記述をしますとあまりにも評論家のようできわめて僭越である事をお許し下さい。

ともあれ、POP吉村を中心にして九州の雁の巣レースの枠組みは、それなり大きな使命を全うし、このあとに繋がる二輪モータースポーツの発展の基礎づくりと言うひとつの財産を遺して終焉を迎える結果になりました。
63年以降POP吉村の活動は、ゆるぎなく世界的なチューナーとしての地位を築かれていく事は皆さん既にご承知のとおりです。
それは、雁の巣時代に原点があり、その延長線であったとしても、もはや別の新しい時代の創出ととらえるべきでしょう。

次回51回から、今だから書ける少し面白いお話をお伝えします。
                                           ・・・・・・・・・・・・つづく・・・・・・・・


51回3月13日

 前回、50回で雁の巣時代は1962年をひとつの区切りと申し上げましたが「年代をそう簡単に色分けできないだろう。63年が本当の転換期と考えるほうが自然じゃなうかな!」こんな意見が仲間内から出されました。それは、1963年7月、MFJが新しい組織で主催した、第1回九州耐久ロードレース大会と命名して、雁の巣コースを使ったイベントを開催しました。そうでした。主催役員も運営委員も参加ライダーも殆ど雁の巣育ちの九州人ライダー?そして最初から汗を流して一緒に盛り上げていただいたKTA(駐在米軍ライダーの団体)のメンバーでした。
タイトルは耐久ロードレースとなっていますが、レース内容は最高26周の100kmくらいですからスプリントレースです。前にももっと本格的な耐久レースを開催した事があったので、耐久レースとしては名前だけの期待であったも知れません。そしてこの第1回の開催はあったとしても継続して第2回の開催は無いだろうと、関係者全員も感じていたかも知れません。基地問題も含めて取り巻く2輪スポーツの意識や環境は既に中央に移り、雁の巣のビッグイベントもこれが最後になるだろうという認識は持っていました。

 当時の開催パンフレットを見ていくと、63年の前半からメーカーチームに招聘されたり、入社していったライダーを除いて、九州に残ったいたライダーたちの総力を結集した本格的なスプリントレースの戦いであり、あるいは、この雁の巣コースでの最後を飾る男の花道(浪花節で古いですね。この言葉しかありません」にしたと思うと、タイトルが耐久であれ何であれあまり問題ではありません。
開催規模は相当に大きなものなり、九州にこれだけの潜在ライダーがいたのだと改めて驚きました。むしろ、若い次世代の参画ライダーが一挙に増加して公開練習でベテランライダーに堂々と伍して走る様子を、感慨深い特別な心境でみていました。

次回、レースのパンフ紹介やクラス分け大会規模など、そしてまた新しいヒローが生まれる事をお伝えしようと思います。
                                ・・・・・・つづく・・・・



52回3月19日

51回でお伝えした、第1回九州耐久ロードレース大会についてもう少し詳細を追記します。 開催は1963年7月20日〜21日の2日間で、全部で10種目にクラス分けがされました。何故かアマチュアクラスとオープンクララスに線引きれています。多分新人ライダーのためにベテランの参加制限を考慮したと思うのですが、走り込んで優勝経験もあるライダーがアマチュアの中にいたりして、かなり曖昧な区分であったかも知れません。

耐久レース出場クラスと出走台数の内訳

7月20日

50cc

12周

アマチュア

18台

125cc

15周

新人アマ混合

17台

250cc

10周

実用車

8台

250cc

20周

アマチュア

12台

125cc

20周

オープン

8台

7月21日

251cc以上

20周

アマチュア

16台

250cc

25周

オープン

18台

50cc

10周

新人決勝

21台

50cc     

15周

オープン決勝

18台

251cc以上

25周

オープン決勝

17台

                     総台数

153台


  このレースが雁の巣の最後になるかも知れない、その時は良くわかりませんが参加したライダーの心のなかに予感めいたものがあったのでしょうか それぞれのクラスで勝つべきライダーは順当にトロフイーを掲げていました。残念なのは新しい人たちの芽が出てきたのに、今までのように簡単に ロードレースが続けられない環境に変わっていく事でした。
前にお話したようにこの時期から雁の巣ロードレースに秋風が吹き始めたようです。実はコースの上空は渡り鳥「雁」の北帰航で有名なのですが、その一群を眺めていると一抹の寂しさを覚えました。

                                           ・・・つづく・・・

                             
     

53回3月27日

お伝えしている話が少し二輪スポーツ論に展開して全くつまらないので、少しエピソードを交えて元に戻しましょう。
08年雁の巣会忘年会の席上でしたが、美味しい料理やお酒が入ると、話に花が咲きます。それでなくても皆さんは本音でどんどんと口激の手を緩めません。しかもそれが50年も前の事を昨日のように、お芝居の脚本のようにに忠実に再現します。
小生のホームページ、「ヨシムラCB250SPECIAL」製作記のなかに登場するチーフメカの(Oさん)大好きな芋焼酎が入ると、誰彼と無く説教(説教ととらえてはいけませんね。人生にとって大切なありがたい教訓を戴く?)を始めます。
今回はRSC社長の高武君がターゲットになりました。そのまま博多弁で再現すると「覚え取るや高武。お前は時間があんまり守れんやったもんね。立派にレースチームで若手を育てていきよるとは認めるばい。しかしなあ、人の上にたって教える立場になって、それが直らんとはなしてや。人間はなあ、小さな欠点があると馬鹿にされている事を知っとけや。お前がどげん速く走れろうと、いい選手を見つけようと、それは関係ない。まだなおっととらんとはなしてや。」高武君曰く「Oさん、すいません。言われるとおりです。直していくように頑張ります」
Oさん「よし判った、今日はこれくらいにしとこう。しかし本当に反省しとるや。お姐さん、お湯割追加してきて・・」陰の声「誰がこげん飲ませたとや。」

仲間内ではある先輩後輩の流れ、よく言えば長幼の礼が保たれているかも知れません、かなり乱暴な言葉のやり取りが流れます。

当日メンバーのYさんが貴重な写真を届けてくれました。
次回のその写真にまつわるエピーソードを少しお伝えしましょう。
                                        ・・・・・・つづく・・・・・・



54回4月12日

 高武君の話が出てきましたが、その彼はとても優しい一面も持ち合わせています。私も全く違った環境での企業勤務をして2輪の世界とは縁の無い道を進んでいました。一人娘が高校生になりある日突然「バイクに乗ってみたい」と言い出して驚きました。自転車ですら満足に乗れないのに、内心困った事になったもんだなと、久し振りに高武君のところに事情を話してお願いをしました。「結論、バイクは何でもいいんですね。要するに
バイクに乗れるようにという事ですね」よく見通していました。「ともかく適当な1台を決めてそこらを走れるようにだけでいいから、頼むわ」親としては無責任きわまりない買い物を押し付けているのですね。
1週間してもバイクが家に来ません。「まだ乗れていないからお店で預かっておくそうよ」「君は毎日何をしているの」「バイクに跨って練習しているよ」・・・代金の支払いにSHOPに伺いましたが、そこで愕然、
店長曰く、「柴田さん大変ですよ。高武社長が毎日かかりきりで、怪我でもされたら大事になると、バイクを後から支えて練習ですよ。社長にとっては地獄の特訓になっています。もう6日間続いていますから」この話を聞いて驚きました。一流のライダーに申し訳ないことしたな、娘もそんな話を全くしませんし、高武君も愚痴をこぼさないので父親だけ何も知らないままで終わるところでした。
普段はどちらかと言えば口数も少ないが少しだけ短気の彼には相当のストレスとなったと思います。

2枚の写真は当時HONDAでメカを担当していた雁の巣会員のYさんが,1964年第回日本GPのパンフにライダーから直筆のサインをしてもらった貴重なものです。
                     
                                                        つづく

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