Tea room Special
あまり語られていない名ライダー 松本 明    
  第6回 1月21日















第5回からつづき

・・・・長い夜汽車のなかで思っていたことは、ただ「明日」のことだけ、将来のことなど考えられなかった。ただ走ることに一生懸命だった。
荒川のテストコースは直線の先でのヘアピンカーブがあるだけのコースだ。つまり行って帰ってくるだけ。松本が走っている時、ホンダチームはすでに世界GPを走っていた谷口尚己(1961年マン島TT125ccクラス第5位)らがコースサイドでチエックしていたという。結果は、一番タイムが松本だった。
 ところで、鈴鹿サーキット正式オープンを前に全国各地からライダーが集められ、二ヶ月間にわたって合宿が行われた。勿論、松本も参加。初めての鈴鹿を走った。「グランドスタンドから入って初めてコースを見たときはさすがに凄いなと思いました。スケールの大きさにですね。たしか、そのときホンダのGPレーサーが走っていたのを覚えていますよ。初めて走った時の印象ですか、タイヤのせいでしょうか滑りやすかったですね」鈴鹿の合宿から帰った松本が雁の巣を走ってみたらコーナーでオーバーランするのには困ったという。

 鈴鹿で行われた18時間耐久レース(1964年8月)には九州から250ccと305ccの2クラスにそれぞれのチームが参加。結果は250チーム(高武富久美・倉富福生・渡辺親雄組)がリタイアするなかで、305ccチームの松本明・緒方政治・青木一夫組が見事優勝を飾る。


鈴鹿18時間耐久には250ccはCB72改、305ccはCB77改で、いずれもPOPチューンのヨシムラSPECIAL。出場チームもKTA(九州タイミングアソセーションという九州雁の巣を拠点にした日米の合同チーム)となっている。
POPチューンのマシンから追い上げられたホンダ技研チームがエンジンブローでリタイア、ヨシムラエンジンのパワーと耐久性が一躍全国に広まる結果になった。・・・・・つづく・・・・・
                        
                               


  第7回 1月31日









・・・・・・松本にとってこの鈴鹿での勝利は、明らかに雁の巣での勝利とは様々な意味で違った思いを味わうことになる。世界GPへのアプローチが一段と近くなっていたことも確かだった。
 ホンダが社運を賭けた世界GP挑戦は1959(昭和34)年のマン島TTレースから始まっていた。そして世界GPで戦えるマシン作りと世界GPを開催するために鈴鹿サーキットはつくられた。日本のロードレースがようやく世界への階段を上り始めたといっていい。

 1963年11月10日。日本で初めての世界GPが鈴鹿で開催された。松本は、このとき多くのGPライダーの中でもとくに250ccクラスで4位に入ったイタリア人タルキォ・プロヴィーニ(1957年125ccクラス世界チャンピオン)に魅せられてしまう。この年のメーカー及び個人タイトル争いが、ホンダのジム・レッドマンとモリーニに乗っていたプロヴィーニによって争われていたから余計にエキサイティングなレースとなっていた。  
 松本は翌年に行われた18時間耐久レースにプロヴィーニと同じデザインにしたヘルメットをかぶって出ていた。とにかく当時は世界GPの情報に飢えていた。鈴鹿以前は映画や雑誌等で見ることしか適わなかった。GPライダーのライディングフォームを参考にすることが速くなる近道だと信じられていた。
 因みに世界GPの日本開催は、63年から66年までが鈴鹿、67年と68年が富士スピードウエィで都合6回が行われた。

 1965年10月23日に行われた第3回世界GPはMFJ鈴鹿大会と併催で行われた。このとき松本はジュニア350ccクラスに乗りなれているCB77改で出場。そして、このレースこそが松本にとって鈴鹿でのハイライトであり、結果的にそれがレース人生におけるひとつのピリオッドを打ったことになってしまう。・・・・つづく・・・・・


 写真解説
レースを断念して、残っていた数多くのトロフィーや優勝カップも処分しまった松本だけど、この1962年開催のMFJ第1回全日本ロードレース大会記念メダルだけは今も大事に所有していた。このとき、松本はノービス250にCB72改で出場して5位に終わる。

                        

 第8回 2月8日(最終回)






















 ポールポジションからのスタートだったが、あいにく押しがけでエンジンがかからなかった。必死に押しているうちに息が上がってきてもう駄目かなと諦めかかったころかろうじてエンジンがかかった。すでにほとんどのバイクは第1コーナーに消えかかっていたという。「これはいかんなと思いましたが、でも何位かに入れるやろうと、先を走っていたバイクを1台また1台と抜いていくうちに何周目かに5位くらいのバイクを抜いたときにはこれはイケルかなって感じましたね」結局松本は全車をゴボウ抜きにして1位でチェッカーを受けた。
 
松本がこのレースでたたき出した2分41秒7のベストラップはもちろん、コースレコードで、それから2年間は破るものがいなかった。因みに松本のタイムを超えたのは後年世界GPで活躍している金谷秀夫。マシンは市販レーサーのヤマハTD−1(2サイクル2気筒)だった。このときの雑誌の見出しは「恐ろしい男」というものだった。
世界GPと同じ表彰台に上がったときの思いは格別だった。雁の巣でのいくつもの勝利のときとは明らかにちがうものがあった。忘れられないレースだ。
 ウイニングランを終えてパドックに帰ってきたら、ホンダのレース関係者が駆け寄ってきて興奮気味に声をかけてきた。チーム入りの誘いだった。しかし松本のホンダ入りは勤務していた会社の社長の強い慰留によって断念せざるを得なく、レースへの道をあきらめた。結婚を控えていたことも重なった。
 「今思うと、良かったと思うこともあり、またああすれば良かったかなと、思うことはあるけど、悔いはありませんよ。青春時代のよき思い出になっていますよ」

 福岡ホンダが四輪販売を行うために欧米モータースを開業したとき松本それまでの二輪から四輪へと仕事が変わった。四輪も好きだった。以来、会社を退職するまでの30数年は仕事人間といった感じで四輪の仕事をひたすら続けてきた。「わたしは、人間付き合いがヘタな方で、好き嫌いがハッキリしていましたから、言いたいこともきちんと言う。仕事の上では厳しい上司だったと思います」
生き方の不器用さも口にしたが、決してそうはおもえない。あくまで本流をみつめて生きてきた人の顔である。
 仕事から身を引いた今、福岡市内から車で1時間ほど離れた若宮町の田園の中で静かに田舎暮らしを送っている。

写真参照
レースはあきらめたけど、バイクは乗り続けている。かって一緒にレースをした永末順三や永松邦臣らとツーリングを楽しんでいる。67歳になる松本が07年に新しく購入したのはBMWR1200STだ。           (終わり)

 長期間の閲覧ありがとうございました。途中お休みが多く中断をしたことをお許し下さい。青字の部分は転載記事ですが事実だけを正しく伝えられています。記事最後の部分の「不器用とは思えない」とありますが、決して上手ではありません。寡黙で真面目一徹の人間であることは間違いありません。 松本明氏は現在、昔のレース仲間で構成される「雁の巣会」の世話人をしながら、好きな陶芸の道にもいそしんでいます。


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