Tea room Special
あまり語られていない名ライダー 松本 明    
 1昨年の初めに、モデリングノートにヨシムラSPECIALホンダCB72の製作記事を掲載しました。
そのなかで、当時のマシンつくりに携わった人や活躍したライダーの皆さんの声も併せてお伝えしました。
そして、
Tearoomのなかでも時折お伝えしている雁の巣会(福岡市郊外の雁の巣飛行場跡地を拠点に始まった
ロードレースに故POP吉村氏らと一緒にに参画したメンバーの団体)
の活動もお知らせしています。
実はミクシーというブログのなかに見たい記事がありましたのでメンバーになりました。
ところが、何か日記をある程度提出しないと取り消されると聞いて、仕方なく日記ではありませんが、
回顧録調で「雁の巣時代」のタイトルで九州から発進した当時のバイクレース活動の側面をお知らせしています。
隔日くらいのペースですが、いつのまにか30回を数えるまで続いています。ただミクシーはメンバー以外の方では閲覧が、
できないそうでとても残念です。この松本明伝?と併行してミクシーの記事も見て頂くと1956〜1963年の
日本国内レースの黎明期がどんなものだったのかよりご理解が深まると思います。
 私は現在、この雁の巣会の世話人で運営のお手伝いしています。8月26日には雁の巣会会後援のポケバイレースの
表彰式にも出席しました。場内放送で私どもの昔の活動が案内され、参加しているチビッコライダーの皆さんから
「このおじいちゃん達、昔、同じようにレースやってたんだ」とほんの少し畏敬の眼差しを感じました。
前置きが長くなりましたが、この記事は、本年5月26日〜27日に2007年全日本ロードレース選手権第4戦が開催され、
そのときの入場者パンフレットに掲載されたものです。
折角の記事ですから転載してもっとたくさんのレースファンの方に
追記事項を加えてご紹介します。 
 注(掲載文なかで青文字がパンフレットから転載記事です)  トップページにもどる                                   
  第1回 07年8月31日









今年の6月下旬、西海岸サンフランシスコから帰福の機内で、
「思ったより楽な日程でそんなに疲れなかったね」と
予想外の言葉が返ってきました。彼は67歳だったはずなのに
実年令とその人の行動力、体力には個人差があるものだと
実感しました。私も結構元気印なんですが今回は負けました。
現在の松本明さん(中央)は最近はやりのチョイ悪じじい?みたいです。

オートポリス発行のパンフレットのタイトルは

「雁の巣で一番速かった男の夢・世界GPを目指したもう一人の
九州モンライダーがいた」
と書かれています。
さらに
「日本にまだ本格的なロードのレーシングコースが
なかった50年代、九州では米軍がつかっていた何ヶ所かの
飛行場でレースが行われていた。ドラッグレース、ロードレース
そしてバイクを使った様々な遊びそこから、バイクをより速くする
技術や乗り方が芽生えていった。そして男達が夢と野望を描いて、
世界へと飛び立っていった。わが国のロードレース史を語るうえで
その重要な役割を演じた雁の巣だから先人たちの勇気ある行動を
後世に語りついでいかなければならないと、オートポリスは思っている」

と創世期のその時代を的確に表現して雁の巣の果たした役目に
ついてもきわめて高い評価をいただいています。

彼はは福岡市から約30キロほど東南にある筑豊地区の
飯塚市の出身です。1957年頃から、板付飛行場で開催されていた、
ドラッグレースに参加したいと九州の中では最も早くから
オートバイ競技に関心を持っていたグループの一員でした。
当時はマスコミがつけた変な名称「カミナリ族」とは一線を画す
真面目なライダーの皆さんでした。
余談ですが、私が主宰するクラブも決して公道上で大排気音を
轟かせて、グループでつるんで走るような事はありませんでした。
むしろそんなグループを「下手くそ」と露骨に軽蔑していたように
思います。ただ松本君のクラブは皆さん全員が筑豊出身の人ですから
柔らかく話していても川筋言葉が飛び出し「組の人みたい」とか
陰口叩いていました。・・・・・・・つづく
・・・・・
  第2回 9月11日






     
ホームページ作成の私がスケールモデル5人展を開催して毎日会場で
お客様に応対いたしました。当然第2回が書けないのは当然でした。
午前7時に仕事に出てあらまし消化して作品展の会場に10時に駆けつける毎日でとうとう2週間も原稿をサボってしまいました。


わが国のロードレース黎明期、まだちゃんとしたサーキットが国内のどこにもなかった時代だからこそ「雁の巣」は重要な役割を担っていたといっていい。                (中略)
この一風変わった名前が地名ということぐらいは九州の方ならご存知だろう。ここでいう雁の巣とは福岡市の博多湾を巡る海の中道の付け根近くにあった「雁の巣飛行場」のことである。博多の中心から高速道路を使えば1時間もかからない。目の前に波穏やかな博多湾が広がっている。
雁の巣飛行場は古くは戦時中、日本軍の南方支援作戦基地として、また戦後は米軍の朝鮮戦争へのとして物資運搬基地として使われていた。
やがて、戦争も終わり平和な時代が訪れるとともに、飛行場の周回路を使って主に米軍兵士らとともに日本人も加わってレースが行われるようになった。
日本初の本格ロードレースコース、鈴鹿サーキット誕生の数年前である。

本文タイトルと関連が少ない話なので転載記事のなかでは、雁の巣飛行場の周回路を使ったレースコースの存在が省略されていますが、この周回路を使えるようにするため、米軍GIとPOP吉村を中心にレース活動を担う団体KTAのメンバーによる努力がありました。私はチューナーとしてのPOPも尊敬していますが、むしろこのようなレースを開催できるようにするその活動とリーダーシップを高く評価しています。



  第3回 9月14日
  雁の巣の名が全国のレース好きに知られるようになったのは1962年(昭和37年)に行われたMCFAJ主催の第5回クラブマンレースと翌1963年MFJ主催の第1回九州耐久ロードレース大会といった本格ロードレース開催されてからだった。因みに鈴鹿サーキットの完成は1962年である。
さて、雁の巣での二回のイベントで一気に頭角を現してきたのが福岡県飯塚市出身で当時21歳の松本明。
松本はかって筑豊で炭鉱経営を行い炭鉱が下火になってからは土木業、さらに県会議員をしていたいう「厳しい父」を持つ次男坊として育った。
筑豊は福岡出身の直木賞作家、五木寛之の小説「青春の門」の舞台になった場所で全国に知られている。ストーリーにはバイクだって重要な役割で出てくる。
タイトルが示すとおり青春をテーマにした長編小説である。
だいぶ時代の違い(小説のはじまりは昭和10年頃)はあるものの、おそらく松本の青春時代も小説に描かれていた社会的な名残りは残っていただろう。土地の持つイメージとそこに生きている男たちにもどことなくそうした物語が重なってくる。こうした風情はは他の町にはない。九州、それも筑豊独特のものだ。松本の口から出た青春の門にもどこか独特の響きが感じられた。
学校を出てからとくに目標も見つからなくて、しばらく父の仕事を手伝っていた松本だったが、これから始まるエキサイティングな人生の予兆など全く感じることもない日々を過ごしていたというわけだ。そんな時にバイクに出会った。「初めて人生の目標らしいものが見つかった思いですね」とあらためてバイクとの出会いを振り返る。


転載記事に少しだけ解説を加えますと62年は雁の巣コースの
最盛期であり、コースの存在が全国的に知られるようになったのは、
もう少し前の1960年の中頃からでした。
とくに関西の著名なライダーたちはこの当時から注目し、
走行練習と併せてPOPヨシムラのマシンにも関心を
寄せ始めていました。


 第4回 9月25日




            左端のCS77が松本明












 

最初に乗ったバイクはヤマハYD1(2サイクル空冷2気筒250cc1957年)つくりの良さが気にいっていた。
松本がバイクに乗り始めた頃にはすでに板付飛行場(現福岡国際空港)や芦屋飛行場あたりでバイクレースが行われていた。
もちろんそうした話題は今より広がるのは早かった。またホンダが世界GPに参戦したことも雑誌で知っていた。いつかは、GPに出られるかもしれない、そんな漠然とした思いと夢のような期待を抱いていたという。松本がレースに足を踏み入れた第一歩は、板付の滑走路を使って行われていたドラッグレースだった。例のヨシムラの創始者、吉村秀雄(1922〜1995)が参加していたイベントである。ただ、松本はこのドラッグレースにYD1で出場したものの4サイクル車には全く適わなかったという苦い思い出だけが残った。よく走った八木山峠(福岡市と飯塚市を繋ぐ国道の峠)やツーリングバイクとしては大いに気に入っていたYD1だったが・・・・・・結局ドラッグレースは1回だけであきらめてしまった。

やがてドラッグレースからロードレースに人気は移っていきレースの場所も板付飛行場から雁の巣飛行場へと変わっていった。それからが松本にとっての本格的なレース人生の始まりとなった。雁の巣における松本の初レースは1959年頃だった言うから20歳になりたての年頃だろうか。この時350ccクラスで走ったのは日本人では松本ただ一人で他は全員アメリカ兵だった。結果はぶっちぎりの1位だった。因みにマシンはホンダCS77改(空冷4サイクルOHC2気筒300cc1958年)だ。これを皮切りににつぎからつぎへとレースにのめりこんでいく。
最盛期の20歳から24歳頃にかけて毎週のように走っていた。
九州だけど雪の降る日もあってそんな中でも走ったという。優勝カップも数えきれないほどになった。

 58年から雁の巣コースが使われるようになりましたが、最初の2年くらいは毎週レース開催は出来ませんでした。月に1〜2回しかもドラッグレースなど挿んでいたので、不定期な開催が実情でした。松本氏を見たとき、私のチームにいた若手ライダ緒方君と違った意味の鋭い走りのライダーが現れたと注目されていました。

 
  第5回 1月16日 


        雁の巣コースクランクコーナー前








 何と3ヶ月もお休みしました。出来ない理由や言い訳をしてもしても無意味なことですが、自分の能力を超えた背伸びをすると、仕事も趣味も遊びも全て中途半端になります。使った時間は結果と関係ないだけに残念ですね。あまり好きでない言葉「頑張ります」としか出てきません。

 バイクは見よう見真似で改造した。ヘッドも自己流で削った。結構早くなって、例のPOPこと吉村秀雄のバイクより速かったこともあったという。当時はそれぞれが様々なことを試して少しでも結果が良ければ、互いに教えあってバイク作りに励んでいたというのどかな時代であり、環境であった。
 「恐ろしい男」現る
松本にとって雁の巣のハイライトは前記の第5回クラブマンレースであり、翌年の第1回九州耐久ロードレースだろう。とくにクラブマンでは当時のトップクラスのライダーが全国から馳せ参じていたからいやおうなく士気は上がった。結果は250ccクラスで1位。MFJ主催の九州耐久では125ccと250ccの2クラスでそれぞれ1位に輝いた。この二つのイベントでの結果は松本の名を全国区知らしめることになった。この頃、松本はそれ以降彼の人生の大半を過ごすことになる「福岡ホンダ」という販売会社に入社(1962年)した。仕事は「バイクに乗ってレースをするだけ」今日でいうプロライダーである。
正式入社を前にしたアルバイトの頃、会社のすすめで荒川のテストコースも走った。オーデションのようなものだった。丁度20歳を過ぎた頃だ。荒川へは夜行列車に乗って向かった


                             
 続く

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