2月4日 TARQUINIO PROVINI  1963
2005年1月6日、イタリアが生んだ一人の天才ライダーが逝去しました。私のレーシングバイク模型つくりの原点、プロターブランドの創始者でもあります。訃報を聞いてとてもショックを受けました。
丁度遅れていた製作の追い込みをしていたところでしたが、途端に緊張感もなくしてしまって仕上げ作業も身が入りませんでした。改めて故人のご冥福を祈り、少しだけプロヴィニ氏を偲びたいと思います。





私が亡くなったといってどうか涙を流さないで下さい。
今までのように私を感じて話かけてください。
天空からあなたを見守っています、愛した大地のように




訃報のハガキ(裏面に日本語訳がありました)

63年の250cc世界選手権最終戦鈴鹿サーキットで、日本のGPファンは初めてプロヴィニのライディングを見てマシンがレースを決めるものではなく、マシンのポテンシャルを余すことなく引き出す乗り手があって創られる。そんなロードレースの醍醐味を実感したのではないでしょうか。このレースの結果、プロヴィニは4位で表彰台に上がる事はありませんでしたが、その走りを称える拍手は優勝のジム・レッドマンと変わらないものでした。
このレースから日本の記者はプロヴィニに「火の玉ライダー」とそんな名前を付けたように記憶しています。(あるいはモリーニのカウルにある車番の枠から赤いラインが放射線時状に広がっているから?)勘違いかも知れません。

左からアルフォンソ・モリーニ(モリーニ社の代表)、
T・プロビーニ、シルビオ・グラセッテイ。









1963年イモラゴールドカップレースにて

 Tプロヴィニにまつわる伝説的な物語りや神話についてはこれまでGPレースに関わるたくさんの人達からレポートされています。レースを通じてその実績やライダー気質と側面的な人物像、ライディングしたマシンまでいろんな視点でとらえられています。そのなかで人生の半分をTプロヴィニと一緒に模型つくりをされたプロタージャパンの岡部社長が記述されたインサイドストリー(モーターサイクリスト誌91年1月号掲載・プロビーニの事故とその後)はプロヴィニ引退後の姿とレースシーンが交差する貴重なレポートです。
 今から42年もさかのぼる1963年は初めて世界選手権が日本GPとしてが鈴鹿サーキットで開催された年です。これから始まった日本のロードレースを考える時、きわめて意味のある年度です。ごく個人的な考えなのですが、プロヴィニはそれまでのGPレースで大活躍のわりには、日本では意外に人気薄?のようでした。それは日本での知名度が英国人ライダーのほうが馴染みが多かったからかも知れません。そんなことからでしょうか63年以前にはあまり日本の雑誌等には紹介していないようです。
しかし、熱心なジャーナリストの高・忠さんはこの年モーターサイクリスト7月号で、イタリアン・トップライダー連載第1回でT・プロヴィニを取りあげて詳細に紹介されています。
それまでは殆ど外誌の翻訳を簡単に記述されていることが多い中でとても印象に残っていました。その記事の一部をご紹介して1963年とタルクィオに想いを馳せたいと思います。
 
とても珍しい側面からの前屈姿勢の写真。前後輪サスの沈み込みから直線でのトップスピード域でしょうか。

無骨なカウリングも非力な単気筒マシンの最高速を引き出している魔法かも知れません

どなたか車番21はどのレースなのか詳細をご存知であれば教えて下さい。。






 高忠さんの記事全文のなかから戦績など一部省略して原文のままご紹介します。

・・・・・1957年の終わりにモンディアルがレースから手を引いたので、彼は次のシーズンからMVに乗る事を承諾したのだが、MVチームには彼の宿命のライバル、カルロ・ウビアリと一緒であった。プロビーニは250ccに専念することに決まり、事実、彼(ガララーテ(MVの工場の所在地)のシングルに乗ってマン島TT、西独GP、ダッチTT、アルスターGPでトップとなり、このクラスのイタリアチャンピオンと世界チャンピオンになったのである。
 翌1959年も、彼はアグスタ伯のチームにあり、250ccクラスのイタリア選手権を得ている。彼はアッセンでダッチTTの250ccに、クリスチャンスタットではスエーデンGPの125ccに優勝しているが、マン島TTレースでは125,250のダブルタイトルを獲得している。恐らくウビアリと一緒のチームにいるのに気疲れしたのだろう。プロビーニは、60年モリーニに移り単気筒に乗る事になった。しかし、他の車はともかくとして、MVのツインは彼の乗るモリーニシングルに比べて格段に速く、彼の気違いじみた努力にもかかわらず、得点を上げることはできなかった。しかしながら、彼はTTレースでは素晴らしいライディングを見せてくれ、激しいレースの後、ホッキング、ウビアリに次いで3位となっている。
 一昨年1961年、プロビーニは主としてイタリア国内のレースに力を入れたので、モリーニで250ccクラスのイタリア選手権を楽々と手にしている。イタリアンGPに備えてモンッアで練習中、彼はレコードラップを記録している。それはホンダのライダーのラップタイムよりもかけ離れて速いわけではないが、しかし相手は彼のモリーニシングルよりも10馬力も強力なホンダ・フォアなのである。
ところがレスモ・カーブを変速しながらスキッドさせてまわっている時、あまり強引にやり過ぎたので彼は衝突し肋骨にひびを入らせてしまった。彼は翌日も乗り、身体的ハンデキャップと力の落ちるスペアマシンを使用しなければならなかったにもかかわらず、4位に入っている。これが人は良いがしかし時には自分の身の危険もかえりみないほどひたむきなT・プロビーニである。
疾走する彼のライディングフォームは、就中モンディアル時代のものすごいフォームも実際に見なければ信じられまいが、彼がこれまでになるまでには、幾多の恐ろしい衝突を経験しているし、また何ヶ月も休まなければならなかった時もあったのだ。
 彼はいくらか迷信深い。彼の機械に対する勘は非常に鋭く、他のライダーやメカニック達が完全と思っているレーシングマシンの極く些細なトラブルでさえ、よしそれがエンジン部であれフレームであれ、どの部分にあっても発見することができるのである。このため、彼はレースの前夜に、時にはレース当日の朝でさえエンジンを降ろすように要求することがままにあるのだ。
 プロビーニに言わせると難しいサーキットはマン島マウンテンコース、イモラサーキットそれにニュルブルグリングサーキットであり、皆昇り降りの坂とあらゆる種類のカーブがあるからだという。・・・「中絡」・・・彼にとって理想的なレーシングマシンとは?500ccはエイト(実際は走らなかったモトグッチV8)350ccはフォア(ジレラ、MV、ホンダ)250ccはツイン(MV)そして125ccは(MV、モンディアル、ドウカテイ)という。・・・・・・・・・

マシンに跨りメカニックと何やら話すプロヴィニ。







別冊MC1973増刊号から転載
(使用写真はすべてモーターサイクリスト誌から転載、解説内容も原文のままです)
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