Tea room Special 雁の巣時代 第3部

29回8月25日
 
古い記憶を辿りながら僅かに残っているモノクロ写真のデータを見ると当時の事が一つ一つ懐かしく
思えてきます。サボりながら書き連ねて30回を重ねました。明日は、雁の巣会後援のポケバイレースが
開催され、出場者のなかから優秀ライダーを表彰するため終日コースで過ごすことになります。
屋根はありますが 凄い暑さを覚悟しています・・・・・・

        
  雁の巣コースで鹿毛君がもっとも光っていた頃の写真がありました。(通称教会前と呼んでいた地点)
                                    ・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・
 

 

 30回8月27日

トーハツ関連の話のくくりですが、申し上げたように最盛期には遠くまで出張してレースに参加していましたが、
源さんの配慮だったのでしょう。宿泊費なども一度請求されずに開催地の大きな旅館で、
宴会までしていたようでした。私のクラブには酒豪は少なかったのですが、麻雀好きのY君が決まって
レース前夜には徹夜麻雀を言い出していました。「どうせ今からは寝られんけん、付き合って良かろうもん」
こんな調子引きずり込まれていました。八代市郊外の競馬場の跡地にオーバルのダートトラックがあり、
そこでのレースでは11時まで宴会して、それから朝8時ごろまで麻雀をして、朝ごはんも食べずにコースに
直行しましたが、さすがに疲れはひどくスタートラインに並んでも何をしているのかボーっとして分らないような
状況でした。当然走りも鈍く入賞が精一杯でした。
いつも温厚なトーハツ九州支店の鹿毛君がその時はさすがに顔色変えて怒っていました。
「不摂生なことをどうしてレースの前夜にやるの。まともなら優勝だよ。全く無意味な2位なんて喜べもしない。
成績は問題じゃありません。僕らも真剣に仕事以上の思い込みでお手伝いしています。
今まで先輩と思って遠慮していましたが、怒る僕が悪いですか・・・・」
流石に私も反省して申し訳ないと本気で鹿毛君に謝りました。
彼は、源さんがそのなかにいた事で、誰もいない場所で私が傷つかないように心配りしながら諭されたことは
忘れられません。
そのあとトーハツが2輪業界から撤退の話がでたあと、スズキ自動車から引き抜かれて転職しましたが、
彼が日本を離れるまで交流は続きました。残念なことに彼は赴任先のバンコックで事故にあって亡くなりました。
日本であれば絶対助かっていたのに、当時の現地の医療技術では限度だったそうです。
                                          
 ・・・・・つづく・・・・・


31回8月31日

・・・炎天下のなかでチビッコ達のポケバイレースが無事に終わりました。7歳児から抜群のレース運びを
見せられて驚きました。トップが周回遅れをラップする瞬間に2位からトップに出てそのまま逃げ切り見事しました。
運営も表彰式も全てGPレースのミニ版ですが、シャンパンだけはノンアルコールです。
最終戦は11月中旬開催ですが、来年はさらにシリーズ戦に参加者の増加を期待しています。楽しい催しでした。・・・

雁の巣コース存在が次第に全国区的に広まり、2輪メーカーの幹部もこっそり視察に来るような事も出てきました。
併せてワークスチームの責任者がライダー発掘もかねて来場したり、やっと草レースと陰口を言われた頃から
みるとロードレースの拠点に近い様相を呈してきたのです。勿論ここまで若い人たちを引っ張って、
雁の巣時代を創出したのは、中心になって動いたPOP吉村氏の情熱に他なりません。
後での話になりますが77年アメリカから帰国したときにの言葉が「柴田さん雁の巣のあの頃が一番幸せだったね。
みんなが一緒に動いたから花が咲いた」確かにそのとおりでした。
そんなPOPの元に国内のライダーからCBのチューンアップのオーダーが続くようになってきました。
駆動部分の軽量化と回転抵抗の軽減がPOPの得意部分でした。私も含めて「どうしてそこまで徹底するの、
耐久性は無視なの」とか懐疑的な眼で見る人もたくさんいました。ただ現実問題として、全く別物のエンジンであり
圧倒的に速いことは間違いありません。九州から遠い地域のライダーの皆さんは最初マシンの速さの認識ではなく
「コース慣れと九州人の度胸の違いだ」と分析していたようです。
POPの門戸を叩くライダーも多くなり、この当時高校生だった高武君や永松君など若い世代の将来を嘱望される
ライダーが進出してきました。私のチームにも高校生ライダーの緒方君など後で一流のレーサーの片鱗が見える
若手が入り、そろそろ世代交代の始まりというか、若者特有の物怖じしない精神力と直線的な走りを見ていると
確実に新しい雁の巣時代の到来を感じました。          
                                    
・・・続く・・・・

32回9月11日

私のバイク模型のホームページで8月下旬から「雁の巣で一番速かった男、松本明」の掲載予告をしていました。
本日は8月最後の日、小学生でも夏休みの宿題を片付けるのに大人は駄目です。それでも今日、
第1回を掲載しないと恥ずかしいと思い何とかできました。
実は9月4日火曜日から福岡市の都心のギャラリーで作品展を開催することにしていました。
作品については準備も終わりましたが、レイアウト用の展示台の表装やキャプションなど開催に必要な
周辺作業が終わっていません。 日頃、他所の作品展などお邪魔したとき「作品は素晴らしい完成度、
しかし作品を見せるための用意が不十分、照明や背面、さらに展示台にも気配りしないと
折角の作品の価値を引き下げる結果に・・・」といい加減な駄目だしをしているので後指を指されない程度の
レベルにしないといけません。何かこの部分は省略したいと思っても仲間の皆さんから「いつもと話が違うよ」
といわれて墓穴を掘っています。  
作品展と雁の巣時代のお話とは何の関係もないのですが、全部のことをこなせないので言い訳をしているだけです。
閲覧いただいている皆さんには申し訳ないのですが、
作品展終了まで「雁の巣時代」の連載をお休みにさせてください。

                                 (作品展の会場建物・都心のど真ん中、朝8時頃の写真)
                  

                                                          
・・・・・・・続く・・・・・・

33回9月13日

・・・約10日間ほど、模型の作品展開催のためお休みさせていただきました。今回の作品展ですが概要だけ
ご報告しますと、9月2日に突然に地元テレビ局から取材の申し入れがあって9月3日の搬入日・会場設営の状況、
さらに小生の自宅の工作現場(本当に自作しているのか裏付け?)翌日のオープンから夕刻まで会場内の
お客さんの反応など、密着してテレビ撮りになり、その翌日5分の特番を作って放映されましたから、
そのマスコミ効果と新聞報道のおかげで、会期中連日たくさんのお客さんがお越しになり作品展としては
大成功となりました。しかし折角ご来場いただいたのに、あまりの混雑に紛れてお話が出来ない失礼をしました。
とても残念に思っています。タイトルにある雁の巣会のメンバーもほとんど来場して、CB72ヨシムラSPECIALの
模型を囲みメンバーは勝手に昔話の再開をしていたようです。また私の乗ったCA2も製作展示して、
「カッコイイ」の言葉を期待しました。・・・ここまでの話はほとんど自分の自慢ばかりですね。
お恥ずかしい限りで赤面ものです・・・・・


60年〜61年国内レースはクラブマンレースが主体で各地でコース設定をして何とかロードレースの開催が
行われました。宇都宮、ジョンソン基地内と主催者側の皆さんは懸命の努力をされてその時々に応じた走れる
環境をつくられたのでしょうが、本格的なロードレースには若干のギャップがあったようです。
前にお話したように関西圏から雁の巣レースに参加していた片山選手など中央で既に知られていたライダーの
皆さんから雁の巣の存在と併せてPOP吉村のマシンが口伝えで紹介されるようになり、少しづつですが
全国区として認知されるようになりました。
またY社なども本社から担当者を派遣して情報の収集をしているようでした。鈴鹿サーキットのニュースなどと
併せて大きな転換期を目前にしている時期です。        
・・・続く・・・

34回9月15日

日記を最後の一行になってもう終わったと喜んでいましたが何の手違いか分りませんが画面から書いた文字が
全て消えました。ひとつ前の工程に戻しますと同じく何もなし「データありません」の表示。参りました。
原稿を用意していないので、控えもなく「どんな内容でどこまで書いたかな、いつも遅くなるので、
今日は早くから書き出したのに」ともかく残念です。要約すると今日は次のようなことでした。

 
雁の巣のコースが全国区になった事で、参加台数が増加してきた。そこで各メーカーはこの草レースの行方に
関心が高まった。ホンダは九州のレース活動を福岡ホンダに任せて社内ライダーで対応していたが、
市販前のCR71まで投入する力入れをしてきた。そしてCBシリーズの発売で、レース競技と高速スポーツ走行の
ライダーを一挙に増やして、モータースポーツの底辺を大きく拡げたこと。
対するヤマハのYD1はたとえ雁の巣コースの草レースでも戦えない状況であったこと、
続いて満を持して発売したYDS1もその流麗な外観とは裏腹に十分な戦闘力を発揮できなかった。
さらに同時発売されたレースキットも九州ではシート以外は全く品物が廻ってこなかったことでYDS1が
上位を走るシーンはほぼ見られなかったこと。
その間に雁の巣コースのラップタイムはどんどん縮まりCB77ヨシムラマシンはコース記録を、
打ち出すまでになった。 九州の草レースとはいえ、本格的なロードコースでホンダの独壇場は、
許せないと判断したのか、あるレースの前日に異変と思える出来事が起こった。(ここまで書いていたのです。
要約のほうが分りやすくてよく伝わる?)そうかも知れません。
        ・・・続く・・・・

文字が消える理由が分りました。途中で前日の確認とカレンダーをクリックするとそこまで打ち込んだ文字がなくなるようです。そんな事当たり前ですか?

35回9月17日

 異変のような事とはライバルのヤマハの動きでした。あるレースの前日でした。運送会社の中型トラックにシートを掛けた荷物がコースに着きました。トラックは元格納庫近くの空き地に着けられて先ずテントを張りました。そのテントも屋根だけでない周りに囲いのあるものでしたが、きちんと日本楽器と書かれていて誰が見てもヤマハのピットであることは歴然としていました。当時ホンダ陣営は雁の巣コースを含めたレース活動は福岡ホンダに任されていて、ほぼ社内ライダーの皆さんが活動とサポートに当たっていました。したがって新型マシンがいち早く送り込まれCR71など市販予定だけど売らないし、何故か福岡ホンダに在庫があるというような事もありました。
すでにCBのヨシムラチューンがコース上を縦横無尽にはしっていましたからヤマハ陣営も何か手を打つ必要があったのでしょう。新型マシンの投入であろうということは当然考えられることでした。
私のチームにはアンチCB派のY君がいましたが彼のYDS1でも当時のヨシムラには勝てませんでした。そのY君はヤマハのテントに張り付いていましたが、トラックからやがて1台の250ccマシンが降ろされて、ヤマハの担当社員から丁重に「企業秘密ですから」お引取りを言い渡されました。Y君も私も「僕らアマチュアが見たって何が秘密なのかも分らんのに」若干口を尖らしていました。この車TD1の初期型すなわち市販前のマシンでした。 
 午後遅くやっと調整が終わったのかテントからコースに引き出されて本社からきていたM社員がコースの周回を始めました。5周くらいから1ラップを全力走行していましたが甲高い高周波音を残してストレートも異常に思える速さでした。
ラップタイムを計ろうかと言っていたら、そのままピットに入りトラックに積み込まれてまたも厳重にシートが被されて帰っていきました。Y君曰く「こうなったら企業秘密を暴くぞ」と一人でのたうち廻っていました。
・・・・続く・・・・

36回9月21日

前回、お話したようにヤマハTD1は雁の巣コースから福岡市郊外にある倉庫に運ばれていました。いろんなところに人脈があるものですね、それから長い付き合いになるヤマハのT社員の骨折りで、私とYDS1のY君の二人は当日の夜、その整備倉庫(臨時で準備されていた模様)に忍び込みました?。
そんな事はありません、チャンと許可を貰ってご本社から随行しているメカニックの人たちとお話が出来ました。たかが草レースのライダー、大して影響もないだろうと、マシンを分解、整備作業を見せていただきました。Y君は自分のYDSとの違いの発見することに躍起になって、たくさんの質問を浴びせていました。ヤマハのT社員の紹介であり、購入者でもある事から、とても親切に対応してくれました。シリンダーを外してピストンのスペアなど技術的な側面をいろいろ聞くことで、各社の考えの違いも見えてとても面白かったように記憶しています。なかでも、我々はヨシムラのチューンをいつも見ていた関係で中途半端な知識で技術論を振り回していましたが、専門家にとって多分、答えようが無いようなことだったかも知れません。「吸入ポートはどうして鏡面仕上げになっていないの」「それはそんな必要が無いからです」「しかし抵抗が無いほうがスムースに入るでしょう」「自分達は意味ないと・・・」
今考えると、専門家に素人の理屈をぶっけて困らしていたようです。最近の流行語で言えば「そんなの関係ネー、オッパピー」ですね。  同じクラブで長い間仲間で付き合っていた、このY君も既に他界しました。晩年60歳になってもXR600で林道を攻めていましただけに残念です。いづれにせよヤマハTD1の速さは別格でCBライダーにとって強敵になるはずでした。

                                                     ・・・・続く・・・・

37回9月26日

 会合に参加したり仕事で遅くなったり、スケールモデル5人展の反省会開催など若干追われ気味の毎日でブログにしわ寄せがきています。


 ヤマハTD1の速さは凄いものでCBライダーも直接一緒に走ることを避けているような感じもありました。後半市販モデルではタンクの形も色も変更になりますが、真っ白なガスタンクと丸いシートストッパー、赤い細身のフエンダーをまとい外観からも凄愴な感じすら見て取れるようでした。本社ライダーのM社員は薄くて柔らかいきわめて上質の皮つなぎで、トットッと押しがけをするとパラパラと不整脈音を出しながら、クーンと排気音がつながり始めるとコーナーに消えていきます。
ヘヤピンを抜けると「くの字」になったストレートを走りきっていくマシンを見ていると「重量が軽いだろな。走り易そう」そんな声が上がっていました。
ともかく新しいマシン、しかも市販レーサーのプロトタイプ、社内研究走行課のライダーだしと結果はどうであれ、ため息交じりで練習を見つめていました。練習時間も僅かになった夕刻のことでしたが、あまりにも調子よく走れたのか、あるいはエンジンが回りすぎるのかよく分りませんが、エンジンドライブシャフトが根元から捩れたように折損したようでした。
前述したように数周でカバーを被せて練習切り上げの措置の取ったことには、こんな理由があったようです。さすがに我々も夜間に整備倉庫で遅くまで話していましたが、Y君が耳打ちしました「シャフトの折れた話は絶対話題にせんようにしよう」・・・しかしY君のヤマハ神話はそのくらい事で崩れるような事はありませんでした。「明日のレースは楽しみばい、吉村さんには悪いけどTD1が勝つやろうね」帰路そんな話もして午前3時過ぎになりました。
                                        ・・・つづく・・・


38回10月3日

模型つくりが遅れていると、多忙であるとかチョット風邪気味だとか、遅れている理由を並べるのですが、このブログについてはただ怠慢してるだけで理由が見つかりません。1日僅か20分から30分の時間をコントロール出来ないことはないのです・・・「食事もチャンと三食摂って夜も8時間以上寝ている。まだ時間はいくらでも創りだせる筈だ・・・・遅れる理由を考えるよりどうすれば出来るかを考えろ」企業に勤務している時代こんな風に怒られていたようです。ともあれ毎度のことで言い訳がありません。
 前回やたらに早いヤマハTD1が強烈なトルクに負けてDシャフトがねじ切れた話をしましたが、勿論本番には整備されてスタートラインに並びました。CB軍団のなかにまるで白馬のようなTD1が単騎で挑戦して姿は、さすが工場レーサー(当時市販は未定)とても美しい物でした。対するヨシムラ陣営のCBマシンは決して美しいとか綺麗とかからは縁遠いもので粗削りのプライベートマシンそのものでしたから、余計にTDが洗練されたマシンに見えたのでしょう。美しくて早い、後年ではヨシムラマシンは素晴らしい超一級のレーサーに変貌していきますが。「吉村さんもうチョット綺麗に並べて軽量孔を空けたら」「柴田さんは格好を重要視するけんね」こんなやり取りをいつもしていました。
雁の巣デビユーのTD1は勿論少しセーブ気味の走行でコーナーからの立ち上がり加速を重視したような手堅い走り、言い換えればテスト走行のようにも見えました。雁の巣コース特有の荒れたダート路面の直線ではやはりコースに慣れた地元のCBライダーの突っ込みで水を空けられるのですがヘヤピンを過ぎたあとの舗装路面のストレートでは遅れを取り返すようなレース運びで終始していました。確か僅かの周回を残してピットイン、そのままリタイア届けになったように記憶しています。                                       
 ・・・・・・・つづく・・・・・・


39回10月3日

ヤマハTD−1の快走もあって、250ccクラスが参加車両がも最も多くなりました。併せてコース上でのトラブルも増加してきました。コースアウトくらいは当たり前でマシンが空中3メートルくらい高く舞い上がる(本当の話)ようなシーンもありました。「死んだかも」と皆の心配をよそに、本人はすくっと立ち上がりすたすたと歩いてピットに戻ってきました。当時の若者が丈夫だったということではありません。偶然怪我も無くYDS1が大破しただけのことでした。このH君はレース以外でも武勇伝の持ち主でいつも話題になっていた九州男児でした。
・・・・残念ながら彼ももう他界して思い出話をすることもできません・・・・お恥ずかしい話ですが私もクランクコーナーの入り口でオイル路面に大きく滑って転倒し優勝を目前で逃がしました。自信と慢心の境目で走ってるライダー、まだコースに慣れていないライダー、滅茶苦茶にアクセル全開が命のライダーが一緒に走るわけですからいろんな事が起きて当たり前なのかも知れません。そんな雁の巣にも新しい若手ライダーがデビューしてきます。私のクラブにもN君O君の2名の高校生が入会してきました。この二人は今まで我々がやってきた道とは全く違う人たちでした。入会時に10歳くらいの年齢差はあるのですが、若さだけでない別のもの、言い換えると持って生まれた才能のようなものでしょう、またたくの間にクラブのエースライダーになり両君とも雁の巣では一目置かれる存在になってきます。同じ頃、ヨシムラチームにもK君、N君(もう実名でいいでしょう高武・永松のコンビ)が加わりサンデーレースとは言いがたい壮烈な戦いがコース上で展開されてきます。
 雁の巣時代が最も充実していた頃でしょう。ヨシムラマシンの耐久力もきわめて高くなり進化して壊れないマシンに変貌してきました。ライダーのライディングテクニックも向上し、そんなレースで勝利する事が誇りに思えるようにもなりました。いろんな出来事はありましたが、不思議にレース中の事故死は皆無であったと記憶しています。

                                                      ・・・・つづく・・・・

参考資料  1周4.3km雁の巣コースの略図がありました。(立風書房発行ヨシムラ疾走の50年から)参考のために転載しました。        
          
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