Tea room Special 雁の巣時代 

15回月15日

これまでにお伝えした話ではロードレースのコースは雁の巣飛行場だけのようですが、それだけではありませんでした。福岡県にはもう1ヶ所大きな航空基地があります。県内の芦屋町(響灘玄界灘に面し北九州市より純軍用基地)に雁の巣よりさらに広い飛行場がありました。米軍占領当時は朝鮮戦争の拠点として(アメリカ映画でJチャキリス主演でアシヤからの飛行の題名で紹介された?記憶曖昧です)のちに航空自衛隊の芦屋基地として現在も重要な位置づけです。
 当時、大それた事を考えるもので、雁の巣の使用許可が下りたら直ぐに一部のGI上層部と芦屋基地のGIライダーが一緒になって許可が下りるように行動を始めました。我々は苦い経験があり「そんなに簡単にいかんやろうね」と少し冷ややかにみていました。不思議なことに半年も待たずに走れるような情報が届きました。我々はきわめていい加減な連中ですから、突然手のひらを返したように「良かった良かった。アメリカのセブリングのコースも飛行場の滑走路を使って飛行機の主翼の下を走るらしいよ」行った事もない、見たこともない話を膨らまして開催を待ちました。
 しかしコース公開で走ってみましたが、延々と続くアスファルト舗装、右も左も境界が見えないような路面状況で所々にコーン状のポストを設置してコースを設定していましたが、2kmくらいの直線の後オーバースピードで突入しても先ずコースアウトはありえない、安心して大回りすればと・・・・何か訳分らない話ばかりしていました「ドラッグレースの往復みたい」とか結局ロードレースとはやや異質の感じは否めませんでした。
 芦屋基地のコースは全国ホンダ会主催の愛用者参加謝恩レースを最後に全部で確か5回開催して終わりました。このレース開催はあまり知られていないようです。またあまり話題になりにくかったようです。個人名を省略して失礼ですが山口県のO氏はここのレース実績で当時スズキ本社に入社をしたと思います。


                                         
 ・・・つづく・・・・
 
 
 
16回7月26日 

・・・話があちこちに飛んでしまって筋がとおりません。もっと時系列に手順よくお伝えすべきですが・・・・雁の巣コースで日本人ライダーも参加できるようになったのは1959年の1月3日だったと記憶しています。暮れも押し詰まった時に吉村さんから「やっと走れるようになったよ、お正月だから連絡もとれないし、走るならおいでよ」そんなお話だったようです。よく考えますと56年頃にドラッグレースが始まり、3年間も過ぎていたことになります。自宅から飛行場まで約20kmほど当時は出場マシンで自走していました。日本人ライダーを交えた最初の親善レース(申請許可の目的)は日本人がとても少なく10人を切っていて少しガッカリしました。それでも前述の4クラスに分けてレースは開催されました。お正月ということで、当日午前中に練習を兼ねコースの習熟に混合で自由に走りまくって喜んでいましたが、グリッドを4・3・4と並べることにしてやむ得ずくじ引きで決める事になりました。
 当日は押しがけスタートですから、スタートの練習を重ねておくことが重要なのですが、みんな始めてのレースとあって鉄板滑走路の上を上手く走ることばかり話題にしていたようです。予想通り、私も含めて本番では上手く火が入りませんでした。誰でも経験されることですが焦れば焦るほどエンジンは無言のままでがむしゃらに押しまくった記憶があります。何しろ当時体重が46kg程度で250ccの1速にシフトしていますとクラッチを繋ぎながらドスンと体重をかけても、車は止まるがエンジンは始動できないと笑い話でなく悲しい実話になりました。海外のGPレースの映画を観ていると、3歩くらいの助走でタッタッタとマシンが動きエンジンがかかる・・ゆっくりマシンに跨ってゴーグルを下ろしてアクセルを開ける・そして伏姿勢に、こんなスタートを夢見ていたのですが現実はとんでもない結果で、トラウマでしょうか以後スタートが一番遅い男として定着しました。
・・・・・続く・・・・

                               


17回7月28日

 お正月でしたがお天気が良くて晴天で夕刻には全てのレースが予定通りに終わりました。初めてのロードレースで参加した日本人ライダーもみんな成績結果に関係なく充実感に満ちた顔をしていました。それぞれの所属するクラブの皆さんとレース参戦にはチームとして体制を整えて事が重要だということを認識しました。専用サーキットではありませんから、ガスの補給問題、昼食や飲み物、そのほかにも色んな設備や準備で不足部分が出てきます。  到底少ない人員では手が打てません。米軍基地という特殊性から基地から外に出ると再入場は出来ない約束事になっていましたので「困った困った」の連発でした。
 こんなことから最初はレースに走って入賞することだけを考えていましたが、レース運営のお手伝いも併せてするようになりました。同時に次のレーススケジュールを早く決定する事が当面の課題であり、そのために大枠の年間スケジュールをレースの種類ごとに決めようという動きになり小さな一歩を踏み出しました。しかしこのことは相手もあり基地の体制にも関係があって、そんなに簡単には進みませんでした。ただ第1回の日本人ライダーを交えた「名称は日米親善レース」で参加者や同行したスタッフ達がキチンと基地内のルールを守って行動したことは評価されたようで、次回からの開催申請に役立ったそうです。  また各クラブとの連携も一歩踏み込んだものになって、KTAの一員としての行動基準が備わってきたようでした。私は押しがけの練習が課題でしたが、そんなことはすっかり忘れて全く何もやらない駄目男に・・・・・原因は第1回のレースでスタートで大きなミスをしたのですが、周りの車が不調だったのでしょう間違って3位に入賞しました。「本番になれば何とかなるばい」決してそんなラッキーは続かないことを思い知らされます。
                                                  ・・・・つづく・・・・

18回8月1日

鈴鹿8耐スズキヨシムラチームの完全優勝おめでとう!

雁の巣物語のなかで欠かせないPOP吉村の話ですが第一回の鈴鹿18時間耐久レースの優勝秘話に辿り着く前に、本年の優勝結果となりました。この項は改めてお伝えします。

 話は雁の巣に戻りますが、日本人のライダーが参加できるようにいろんな面で米軍の理解と吉村さんの活動で当初から考えると随分容易になりました。それに伴い参加ライダーも回を重ねるたびに多くなり盛況になりました。1年半ほど経過した時点で、GIライダーから「耐久レースをやろうではないか」と提案がありました。実用車レベルのマシンで実際そんなレースが出来るだろうか、一抹の不安がありましたが最終的に開催の動きになりました。レギレーションを設定する時に、6時間や5時間の案が出されましたが、最初の試みだから3時間に決定しました。126cc以上の車に限りライダー交代は認めない250cc、500ccまで排気量関係なしオープンクラスの3クラスに分けられ、全車混走で排気量別に表彰するというとても簡単な決まりごとに落ち着きました。
 ところがこのレースよく考えるとスプリントレースを延長しただけです。かなり気温も高い時期だったことからGIライダーも日本人ライダーも若干敬遠気味の方向でした。私のクラブからも自分を含めて2台の参加でした。それでも、全台数は30台程度であったと記憶しています。じりじり照りつける太陽の下で、実施2日前に決まったスタートはル・マン式になりました。「あんまり意味ないね」「自動車レースじゃないばい」とか大した問題でもないのに駄々こねてるような雰囲気でした。結局キックスタートもOKとなって何とか収まりましたが、当時は耐久レースなんて誰も経験がありませんから、作戦もなければピットも設けていない。あるのは「ガンバレ」の声援用に持ち込まれたメガホンがやたら目立っていました。
 
                                                
 ・・・つづく・・・・・ 

19回8月3日

何かも全て始めての耐久タイプのレースで不慣れなル・マン式スタートで始まったのです。私も参加していてレース全体の流れはよくつかめていません。およそ2分10秒前後のタイムで周回しますから85周回、単純計算で約360kmの走行距離になると思いますが、今考えると福岡〜広島位の距離を休まず一人でレーシングスピードで走りきることですからやっぱり当時としては大胆な試みであった事は間違いありません。
 残念なことにレースノートにこのレース結果は記されていません。理由は私自身がこの耐久レース、2時間を走った時点でリタイアをしたからです。(チエーンがクランクケースに巻き込みクランクケースが割れてしまうトラブル、後輪がフリー状態だから転倒することはありませんでしたが・・・若しロックしていたらコントロールできなくて大きなダメージを負ったと思います)優勝マシンはBSAのシューティングスター改で100周は超えていなかった。そして完走は16台だったと思います(約30分以上のピットインもあっても最後には走っていた2台を含めて)と記憶しています。KTAの反省会でも耐久レースはやはり5時間以上で2名交代にするべきだとの意見に集約されましたが、雁の巣ではそれから2度と耐久形式のレースが開催されることはありませんでした。
 後日談ですが私のバイクは、ほぼ修理不能の結論になり考えました。162cm46kgの体格では大きなマシンを乗りこなせていないのでは?また経済的な負担も次第に大きく感じるようになったのも事実です。さらに実用車に少し手を加えて度胸半分で臨めるような時代は確実に過ぎ去っていく気配も実感していました。サンデーレースの勝者になるためには異なったアプローチが必要になってきました。
・・・・・続く・・・・


 20回8月4日

 こんな雁の巣飛行場を使ったロードレースのほかに、米軍GIのなかでもオフロードレースの好きなライダーもいました。当時はまだ本格的な専用マシンは国内メーカーは販売していません。排気管を上げたアップマフラーと呼んでいた形だけのオフロードタイプもありましたが、まだ競技車両として考えるとまだ無理な状態でした。しかし一部のGIライダーは英国製の本格的なマシンを所有して何とかレースを開催したい意向でした。
 KTAのミーティングでコース設定さえ出来れば実行しようと、ロードレース派が今までのレース運営に協力してくれたお返しの意味で合意したように記憶しています。ひとつは「どうせ簡単に行かないだろう」と安易に考えていましたら、恐ろしく早い期間でコースを探してきました。またもや米軍白木原基地内の演習場の一部と隣接する大きな白水池の周回するけもの道を組み合わせて途中、基地以外の一般道路を通る全長16kmとなるようなコース設定でした。一般道は日本の管理下にありレースは絶対無理だろうと思っていましたが、地元警察にはラリー競技の移動コースに使用すると言う事で許可を取っていました。
 それでは、どんなレギレーションでと言うよりどんな競技になるの?このレースは「クロスカントリー」である。16kmのコースのチエックポイントを必ず通って一番速くゴール地点に戻ったマシンが優勝にする。単純明快な規定となりました。 基地内のためコースガイドの目印つくりなどは「米軍のほうで前日にやるから手伝いも要らない。それより日本人ライダーの出場車両が多くなるように呼びかけて欲しい」と異例の参加要請を受けました。それは確かにそうです。ロードを走っている連中は殆ど不参加でお世話約に廻りたい方向でした。私は立場もあって、とりあえずハンドルだけを変えて参加することにしました。
・・・・・続く・・・・・
                      

20回8月4日

 クロスカントリー(GIライダーが決めた競技名)レースには沢山の見学者が集まりました。集合場所が基地の演習場で鉄条網をはさんだ一般道がチョットした観覧席みたいな状況でした。参加マシンもほんとに多様でスーパーカブから本格的なスクランブラーまでありましたが全部で30台を下回って日本人ライダーは5名くらいだったと思います。排気量も関係なく1分間隔でスタートすることになりました。各コーナーに米軍の非番兵士が動員されてコースガイドを手伝っていました。スタートしてほんの少し100mも走るといきなり道路を外れて木立の間を抜けるようにコース設定してあり驚きました。
 これはスピード競技ではない。外誌でしか知識がないトライアル競技みたいなものかな?・・・30度くらいの急勾配を上り詰めると竹林、やっと通れるようなけもの道、それでも道があればいいほうで、5kmくらい過ぎたあたりから大きな池の水際を通るように紐が張られています。このあたりから1台がブロックして通れない、競技車が溜まる、そして観戦者が集まる、競技委員が注意をする。「ブロック車両の搬出に手出しをしたらその時点でリタイア扱いにする」多分スタートして1時間くらい経過していたでしょう。ライダーは殆ど口も利けないような
疲れた顔をしていました。よく考えると車に跨っているより押したり引いたり向きを変えたりの連続でしたから・・・・
 チームの応援者達はコースを歩いて横断し先回りしてポイントで待ち構えています。「がんばれ!」そんな声援はきませんでした。「もう止めたほうがいいよ、先に行くともっときついとこばっかりばい、車を抱えんとクリアーできんよ」まさにそのとおり、ハンドルをつかんでエンジンは動いているけど、クラッチを切って立ち往生の連続でした。それでもほんの少しの一般道に出て、今度は本当に声援を受けて「頑張ろう」と無駄な心意気で次のステージに飛び込んで行きました。5分後に1mくらいの窪地に落ち込んで、自力脱出が出来ませんでした。やっぱりこの競技は私のような非力人間には無理だと痛感しました。面子もありましたが疲れの前には吹き飛んでいました。
優勝はスーパーカブでした。ただ全コースを押していたと言うことでしたが身長190cmのGIライダーはあまり疲れた顔もしていなかったようです。ちなみに優勝タイムは2時間50分と聞きました。こんな変なレースにも参加していました。

                                            ・・・・続く・・・・


21回8月6日

 21回に添付した写真はクロスカントリー競技に集まったマシンの写真でした。何の説明もなく申し訳ありません。注意してご覧戴くとGIが跨っているスクランブラーの手前に少しだけタンクが見えます。市販予定で持ち込まれたCR71ですが、少し分り難いと思います。勿論参加はしていません。
  お伝えしたように厳しい過酷な体力競技は何とか終わりましたが、この類の競技が好きなGI(階級は?空軍大尉)は、ほとぼりの冷めないうちに、次のオフロードレースをチャンと企画してきました。前回の不評に少し考えを改めたのか流石に「同じコースは使わないから、もう一度やろう」ということで熱心さに負けたか、権力に負けたか、多分両方に負けて開催することにしました。「コースはどうなるの」雁の巣飛行場からさらに北東に5km程行くと、空軍基地の通信塔のアンテナが沢山あって、さらにその奥に起伏の激しい松林がありました。日本人の我々でも滅多に入り込むような場所ではありませんがよく見つけてきたなと感心しました。今度は本当にスクランブルレースで250cc以下とオープンクラスに分けられていました。
 私も当時よく知りませんがアメリカ国内では、デザートランと呼ぶ競技で、荒地に出場車が幅広く一列に並んで一斉にスタートするものがあるそうですが、何でも発起人のキャプテンの頭にはそのイメージがあったようです。ともかく250ccクラスのスタートラインに並んで、クラッチスタートなら頂と一番に飛び出して1周目を駆け抜けて行きましたが、最初は難なく超えた砂地の丘は全車が走った後で轍が深くなっていてものの見事に転倒して投げ出されました。
 またもやクロスカントリーの嫌な思いが頭をよぎり、「バイクは押して走る競技じゃない。こんなのもう2度と参加せんぞ」とバイクでなくレースを放棄しました。「トップからどん欠になったけんやろ」と陰の声も聞こえてきました。多分それが本当の気持ちでしょうね・・・しかしスクランブルレースとは簡単に縁は切れませんでした。

                                    ・・・・続く・・・・

 22回8月8日

何回か前にお伝えしましたように、1台の実用車でマルチユース、そして車をコントロールできない自分と車の関わり方の問題・・・そんな中で排気量の小さいクラス、それも最小の排気量50ccが市民権を得そうな勢いで普及していました。KTAでも、ロードレース、スクランブル(モトクロス)ドラッグの全競技に50cc級を設けることが決まりました。手軽さと自身の体格から考えますと、このクラスが最もマシンのポテンシャルを出し切れるのではないかと思い、50ccマシンの検討を始めました。同じようにクラブの中でも小排気量は面白いけどあまりにも小さすぎると、125ccに格下げをしたメンバーもいました。ともかく草レースであっても参加するために何かマシンをと、思いつめると我慢できなくなり、近所の自転車店さんから山口オートペットスポーツを慌てて購入しました。
 このモペットは細身のW鋼管フレームにシングルシート外観から見ますと当時のイタリア車よりきれいでスポーツ心を満たすとても格好良いマシンでした。しかし性能的には外観と大きなギャップがあって競技車両として使えるかはきわめて疑問でした。変な話ですが、自転車店のご主人が山口自転車本社に「レースに使いたいから何かパワーアップの部品ないの」と私の知らないところで相談していたそうです。  
 購入後1ヶ月してから山口自転車の九州支店から来社願いたいと連絡があってそんなお願いをしていたのかと認識しましたが、いや驚きました。当時山口自転車は自社では生産をしていなかったそうで、ガスデンに製造を委託していたからでしょう山口自転車の強い意向が働いたらしく、ガスデン東京本社の研究室から2名の技術者がきていました。「当社ではまだ50ccレースには本格的な参画をしていない、東京では九州のように色んな競技がたくさん開催されていない、持参している試作エンジンを搭載して走ってみませんか」「エンジンは1年間の貸与で直近のレースまで我々駐在してフォーローします」再度驚き「よろしくお願いします」と早速購入したマシンを持ち込み積み替え作業を開始しました。当然発電装置はありません。ライトもブザーも使えない公道ダミーマシンそのものです。

  出来上がって試走して驚きました。ほんとに全く別物で1台だけのエンジンってあるんだと妙に感激していたと思います。 クラブの連中に秘密事項を「内緒だけど」自慢していましたが残念なことに、予定されていたドラッグが2週間延期になりました。流石に研究室の技術者も若干のパーツを残して帰京しました。・・・その月のドラッグはさらに1ヶ月遅れて、実力を発揮するのはもう少し先延ばしになりました。
                                                   ・・・続く・・・

23回8月10日

 新しいマシンにスペシャルエンジンを搭載したオートビット50がやっと陽の目を見ることになりました。事前に十分走り込みをして全体的な慣らし?のようなことも終わらせていました。異常にパワフルでとても50ccではないとまで思い込みしており、後は400m区間でどれだけパワーを出し切るか、後輪スプロケットの調整だけを残していました。残念なことにドラッグレースは前日からコースの開放がありません。本番当日の試走で取替えることにしました。何れにせよこのマシンであれば優勝間違いなしと思い込みも大きなものでしたが、
・・・・丁度その頃ホンダからベストセラーマシンのスパーカブのバリエーションで新たにスポーツカブが発表されました。クラブメンバーのY君もいち早く手元に取り寄せ「九州で一番に入った」大喜びで福岡ホンダですぐさまドラッグ参加の準備に入りました。本田では若干のデータがあったようで主任メカのH君がかかりきりでマシンの仕上げをしていました。それでも4ストのあのエンジンなら大した事はないと油断していました。福岡ホンダの前の道路で試走してみましたが、その時には勝ったと。さらに自信過剰の世界に入っていました。
  レース当日の試走が1回だけになりました。さあ大変200m地点でフルパワーに、しかしリヤ2歯の変更でどうなるか、またスペアがそれだけしかないので「このままのセッテイングでスタートから100mのマージンで逃げるしかないね」という事で納得しながら予選にのぞみました。市販車と異なるエンジンでゴール地点では何とかトップで勝ち上がってきました。
  いよいよ5回目の走行で決勝相手はクラブメイトのY君のカブになりました。スタートしたらY君が来ていませんが、そのまま走り続けると中止の合図がゴールで振られていましたが、スターターのミスで再スタートになりました。やり直しでも後方にY君を置いてきたのでそのままゴールの目指していましたが250m地点でいつの間にか横に並んでいます。2ストマシンは完全に回りきり車速に伸びがありません。とうとう1mくらいの遅れですがカブに優勝をさらわれました。
  ホンダのチーフメカH君は「熱だれでタイムが毎回少しづつ落ちていた。勝ち抜きで連続走行が重なりエンジンに負担がかかった」加えて「スタートのやり直しが決定的になった」と話してくれました。熱だれ、こんな事もあるのだと初めて体験して学びました。オートビットのエンジンはお礼と報告を添えて返却しました。どうしてそんなに早く見切りをつけたか
                                                        ・・・続く・・・・


24回8月10日

ガスデンにエンジンをお返しした後、50ccクラスではトーハツからCA2が発売予告がありました。雁の巣の仲間でトーハツの九州支店ーに勤務していたK君から「やっとトーハツでもスポーツの分野に乗り出すよ。50でレースやるなら早めに注文したら。追加パーツやサポートも応援できるからね」こんな話を耳打ちされて、よし小排気量に専念しようと決意しました。
 ロードレース用パーツも併せてあるだけ全部用意して下さいとまたもや近所の自転車店のおじさんに注文しました。K君の話では「手を廻して特注にしておきますから」ということでしたが車はなかなか届きません。もう既にランペットブームがおこりメーカとしては、今まであまり販売されていない九州より東京地域の取引店を優先する意向だったようで、注文してから確か3ヶ月くらい待った記憶があります。その間にも雁の巣ではロードレースが開催されて気が気ではありませんでした。
  その間は今までクラブの皆さんのサポートを受けてばかりでしたから、今度はお手伝いのつもりなのですが、色々と邪魔ばかりしていたと思います。実はこの頃から各社レースを見据えたスポーツマシンを次々と発表してきたことと新しいライダーの年令が若年層に移り始めました。また九州以外のライダーの皆さん(遠くは神戸から母子でマシンを積んで参戦するYKさん)がコースに現れるようになってきました。また出場メンバーも半数が日本人ライダーで占められて、次第に活況を呈し、私の好きな造語ですが「偉大なる草レース」の世界が展開されてきました。
 今まで25回ほど昔話の回顧録をお伝えしましたが、ここまでは揺籃期で全てが試行錯誤の連続であったかも知れません。このあと、2年くらいが雁の巣時代の中心になるでしょう。ホンダCBのチューンナップを日本中のみならず、米国に帰国したGIたちのマシンで証明して一躍POP吉村の名前が知れ渡ったのも丁度この時期からです。
           
                                             ・・・・続く・・・・


25回8月16日
やっとの事でトーハツCA2が届きました。自転車店には商品はこないまま九州支店のサービス工場に転送されており「余分な部品をさぁ全部取っちゃうからさ、後でおいでよ」と少し訛りのある関東弁で電話がありました。  この人は先述のK君とは別の方です。本社の走行テスト課にいて第1回浅間を走った猛者で、雁の巣時代のなかで忘れることが出来ないひとりでした。大きな段ボールの箱の中にスタンダードのパーツが無造作に放り込まれてサービスベンチの上に裸のCA2が鎮座していました。
 驚きましたが恐る恐る「チョット慣らし運転とかしなくて大丈夫」とお伺いを立てますと「ガハハ」笑って「慣らしなんかやる訳ねえだろう。まだピストンもシリンダーも全部取り替えるだし、まかせてろや」と返ってきました。「それからこの外した部品もって帰ってくれや」ととどめをさされて何もいえないまま「ハイそうします」と答えるのが精一杯でした。
 まだバイクの代金も払ってないしキットパーツ以外の部品も結構な値段だろうとか、恥ずかしい話ですがお金の事が心配になってきました。ともかく用意していたバイクの代金の支払いを済ませて翌日また車の登録標識を持ってサービス工場に出かけました。「なんだいこれは黄色じゃないか、原付1種だぞ何を間違えて・・・どうせ公道じゃ走らないんだろう」そうは言っても、練習には公道しかないし、55ccで登録したら制限速度40kmに(もう時効ですから、当時は登録は簡単に出来ました)なってスピード違反にも役立つからと説明してやっと許してもらったようなドタバタ劇でした。
「エンジン降ろして本気で造るぜ」浅間の大将とその手下K君がにっこり笑って「出来たらしばらく工場にきて一緒にエンジンの勉強をしたらきっとレースで役に立つよ。チョット支店長に挨拶に行こう」ともかくこれまた想定外の展開が始まりました。初めて見るメーカーの社外秘マニアル、ポート開口の可変図面など今まで多少のの知識はあったのですが2ストロークエンジンを系統立てて勉強できました。
                                  ・・・・続く・・・・・

26回8月17日
CA2との出会いで始まった、2ストエンジンの単純でありながら凄く難しい性格との付き合いはエンジンの勉強だけでなく、メカニックの人達の黙々とこなしていく縁の下の力を理解することが、それからの人生のなかで非常に役立つことになりました。もう実名を出してもいいでしょう。トーハツ九州支店のチーフメカ?浅間の源さんこと三浦源吉さん、その配下の鹿毛高史君には随分お世話になりました。この二人はやっと本社からのレース参加許可が出て、この後発売されるアローLD2だったと記憶していますが125ccツインのロードスポーツを駆って2台ペアで全戦参加することになります。特筆すべきは鹿毛君で、彼は2輪のメカ部分は本職でしたがレースなど考えたこともなかったそうですが、元浅間の源さんの後について熱心に練習を重ねていましたが、次第にその頭脳的な走りは本格的なものになってきました。
 この雁の巣時代の中心の時期になってきますと、ある程度メーカーの勢力図みたいなものが出来上がっていたようです。福岡ホンダ系・ホンダ吉村グループ・ヤマハグループ・トーハツ系・鈴木自動車系というようにそれぞれの技術支援を受けないともうサンデーレースであっても簡単に入賞出来ないレベルになってきました。私個人の話に戻りますと、ほぼ昼は九州支店の近所から出前を取って勉強に励む?そんな密着体制でマシンの仕上げを進めていました。ウォームアッププラグ1個から色んな面で九州支店も応援を惜しみませんでした。
 やっと完成したCA2のレース参加は思ったより早くやってきました。50cc級は5周になりましたがスタートフイニッシュで完全優勝できました。1台の50ccにかかりきりでサポートしていただき、今までコースまで自走していたのが支店からトラックで輸送、これまでに考えられないような環境の変化も心理的に優位に働いていたようです。
                                             ・・・続く・・・


27回8月19日

何とか自分がコントロールできる車を見つけた。というより僅か7馬力程度のパワーであれば100%引き出せると信じ込むような事だと思います。もう少しトーハツと私個人の話を続けましょう。POP吉村を中心にホンダCBシリーズの活躍が雁の巣時代の象徴であることは間違いありません。 それだけに78年の鈴鹿8耐にアメリカから帰国を前提にした挑戦、そしてクーリー、ウイン組で優勝してから、再びマスコミはPOP伝説を書き立てるようになりました。したがってPOP吉村だけのヒストーリーは十分書き尽くされているようです。そんなことから少しだけ横道にそれてお伝えします。
実用車のトーハツがレース参戦で九州支店のメカ二人、源さんと鹿毛君の果たした功績はとても大きいのですが、あまり伝えられていません。
関東地区でのランペット活躍が起爆剤になり急に車が売れ始めて、さらにキットの組み付けなど一挙にメカの人たちは忙しくなりました。元々販売網が自転車店であったことから、メーカーが技術フォローを引き受けることになり販売が伸びるほど彼らの仕事も倍増したような結果になっていました。それでも熱心に仕事をこなし、ロードレース開催日にはコースに真っ先に来て増加してきたランペットライダーの世話をしながら自分達も真剣にレースに挑戦していました。
 トーハツLDも純レーサーではありませんから、決してそれほど速いとは思えませんでしたし、どちらかといえば頑丈なツインだったようです。それでも一時期までは、他の125を置いていく2台のランデブー走行で優勝を勝ち取っていました。 勿論、師匠役の浅間の源さん(パチンコの名前にあった?)が頭を走りその後を鹿毛君がトレースするようなレース展開でしたが、次第に弟子が師匠のマシンのお尻をつつくようになり、雁の巣時代の終わりの頃は前を走るような事もありました。
                       

   源さんはレースが終わりマシンをトラックに積み込んで九州支店まで帰ると、近所の焼き鳥屋さんでイッパイ飲んで「柴ちゃんよう、雁の巣のクランクのあとのダートの突っ込みだけど、怖がっちゃ駄目だぜ、あそこはよう眼つぶって度胸で入るといいんだ。わかった。わかった?」と説教をされていた記憶があります。しかし時々何か寂しそうな顔をしてる時がありましたが、私にとっては怖い源さんでした。

                                             ・・・・続く・・・・



28回8月21日

怖い浅間の源さんは「柴ちゃんよ、ともかくKTAで開催される競技には全部参加しちゃえよ、ある程度の面倒は見るよ。しんぺいするなって!」少し訛る関東弁で説得されて、苦手のスクランブル(モトクロス)にも懲りずに出場しました。同じクラブのY君は依然としてスポーツカブを手放さず、スプロケットまで鉄工所で製作して「トーハツにゃ負けられん」と意味不明の意気込みで準備していたようです。春日基地内の別の丘陵地帯を利用してオフロードフアンのGIがコースを造っていました。但し前日まではメモ程度のコース図だけで高低差など全く分りませんでした。私は鹿毛君と源さんがモトクロッサー風に改装してもらった車がコースに届けられました。「完璧に仕上げたから絶対にあたま取る、わかるよね」と念を押されて凄いレッシャーで完全に気持ちは萎縮していました。
「ボクは非力だからこの手の競技は駄目なんですよ。頑張ってみます」とほぼ子供の回答をして、またもや「走る前から弱気ばかり」と呆れられていました。50ccクラスは参加車両が少なくて予選なしいきなり決勝レースになりました。試走でコース幅が狭いところが多く、35度勾配の急坂をいかに速く登りきれるかが勝敗のポイントになることが分りました。1周1800mくらいを8周する設定だったと思います。
 スタートラインに並んでから鹿毛君がそっと耳打ちしました。「混合比1:13まで濃くしているから、絶対に焼き付きはないよ、安心して廻していいよ」その言葉で緊張が解けてトップスタート・フイニッシュであたまが取れました。優勝の喜びより何とか支援の皆さんに応えることが出来た安堵感のほうが大きかったと思います。
 ランペットとのかかわりから、レース活動はエスカレートして雁の巣ロードレースと併せて、ドラッグレースも、そして熊本県で開催されたダートトラックまで出場するような事になってきました。多分この頃が東京発動機の全盛期であっかも知れません。
・・・続く・・・