Tea room Special      回顧録 雁の巣時代
    雁の巣時代



 この記事は昨年初秋から約40回に分けて、ミクシーのブログに掲載したもので現在中断しています。毎日書き込みをするブログがどんなに大変なのか十分認識できました。いつも出来ない理由ばかり並べ立てていましたが、とうとう先日閲覧下さった方からお叱りをいただきました。
「クラシックレーサーばかり作っているのにどうして自分のHPで発表して関連付けしないの。ミクシーは会員以外は見られない。さらにまだ完結していないのに中断したままは駄目!」・・・・おっしゃるとおりです。何とか完結させましょう。私自身も相応の年令になり、昔の話をくどくどとお伝えすると何か語り部のみたいですが、ただ日本のロードレース揺籃期を思う時、浅間に並んで雁の巣の果たした役割はきわめて大きいと考えています。「浅間と雁の巣」それは私が始終口走る「偉大な草レース」です。ブログでは日記形式でご紹介しました。誤字も散見されます。また、いたるところで脱線したお話もあります。日記を少しだけ整理して文脈がつながるように改めて、40回を3〜4部にまとめてお伝えするようにしました
                                   08年6月  柴田 一弥
左の写真は当時私たちが垂涎の的であった市販レーサーHONDA・CR−71 (アサヒビールのノベルティから)

  第1部
第1回07年7月2日












第2回 7月3日 









第3回7月4日  












第4回7月5日











第5回7月6日

 1954年の春先だったと記憶していますが、福岡市の少し郊外に板付飛行場(当時は米軍の占領下で軍用機が沢山駐機していました)これは現在の福岡国際空港に変わっています。何しろ半世紀以上も昔の話を始める訳ですから皆さんからみますと「一体何の話なの」となりかねません。
日本のロードレース発祥となりますと大方の皆さんは、浅間火山レースを思い浮かべられるでしょう。その浅間以前に日本列島の端っこ九州でオートバイレースの揺籃期があったのです。これらの出来事、すなわち「九州とPOPヨシムラとオートバイレースと時々若者」これらを総称して雁の巣時代と呼ぶべきでしょう。
飛行場の話から少し飛びましたが(飛行機だから飛ぶ)くさい親父ギャグはさておき、この飛行場の滑走路を使って、空軍の将校たちが中心になってドラッグ(0〜400のタイムレースなのですが当時はこの呼称でした)をやるらしい。そんな情報が流れてきました。

                                       
                                          ・・・・・つづく
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・・・・直線400mの競争にせよその時代では、米国の雑誌などで観るだけの知識でした。バイク乗りの噂では日本人は出場できない米空軍兵士が中心でつくっている愛好会みたいなメンバーに限ると聞かされて、ガッカリしながらも当日観戦に出かけました。飛行場は米軍の基地に日本が借りている形から、飛行場の中に入ることもできずに離れた場所から、はるか向こうを走るマシンを眺めるだけでした。そしてその中に忙しく動いている中年の日本人がいました。「あれバルコムの親父じゃないと。そうだやっぱり吉村さんたい」後のPOPは、当時福岡市郊外の吉村鉄工所の横にほんの僅かな店舗?工場を持ってBMW・BSAの輸入をしていた日本バルコム社の代理店をして、主に米軍の将校たちに販売と整備などで米軍とは既にパイプづくりができていました。

                                    ・・・・・つづく・・・・・・・・・

・・・このお話は原稿も下ごしらえもありません。記憶を呼び起こし事実だけをお伝えしていくつもりですが、多少の脱線と年度の誤りがでてくるかも知れません。ご容赦ください。
・・・この当時国道でも半端な舗装でバイクファンなら誰しも完全舗装の道路でアクセルを全て開いてみたい気持ちでした。ですからドラッグレースでも何とか参加できないものかと思いながら、BMWR69SやBSAゴールデンフラッシュに混じって走るPOP吉村さんの調子の出ないキャブトンでも素晴らしいと感じていました。既に優勝マシンでは15秒台を記録しており計測の精度もあるかも知れませんが、とてつもなく早いとBMWの記憶があります。何はともあれ日本人でも参加できる糸口をつかまないと、そう思うと頭の中はドラッグレースが駆け巡っていました。数日後吉村さんの工場を訪問して、僕らも参加できないだろうかと頼み込みをしました。後で考えると随分無謀な相談に行ったものだと思いました

                                   ・・・つづく・・・

若い時には無謀と思えるような事でも真面目に取り組めます。吉村氏にしてもみんなで集まって一緒にレースが出来たら素晴らしいという想いと方向は一緒でした。「ともかく司令官に掛け合って頼んでみよう。難しい問題がたくさんあるから、しかし動かんと前に進まんけんね」武田鉄矢ばりの博多弁で(武田鉄矢の実家と500mの距離、あまり関係なし)まとめてくれる意向になりました。下ごしらえとして自分達の仲間をクラブ組織にしてクラブの集合体のようなものつくり、その団体を米軍の組織のなかに入れるような方向で準備を進めることにしました。
・・・福岡市の郊外になりますが旧日本軍の飛行場がありました。終戦後は米軍が接収して通信基地と小型機の発着に予定されていたのですが、使用頻度は少なくてあまり利用されていませんでした。博多湾の東端に位置し渡り鳥の飛来で有名な和白干潟の延長線上にありました。雁がたくさんいたことから別名を雁の巣飛行場と呼んでいましたが

                                  ・・・つづく・・・・・

・・・前述の板付飛行場と違って雁の巣飛行場は完全な米軍の基地で朝鮮戦争続いてベトナム戦争を経ている空軍が準戦時体制で管理していました。飛行場の東側を走る県道から鉄条網越しに飛行場の全体が見渡せるぐらいで普通はあまり立ち寄ることもない所でした。この県道を北に走ると金印で有名な志賀の島で、そこで道路が終わる事と、陸続きの島に行くには途中占領下の基地のゲートで検問を受けないと通れませんでした。少し脱線しますが、確かCG(キャンプガードの略称?)が白い鉄帽でコルト45口径のオートマチックをつけて、STOPと止められていた記憶があります。バイクを通じて2世の軍人達と少し知り合いが出来て、キャンプ(基地)の中に入れてもらって、PX(現在のコンビニみたいな売店、無いものは注文で 取り寄せる事もOK)でレイバンのサングラスをこっそり買ってもらったり、ともかく日米親善的な交流も個別に行うことが必要と吉村氏の言葉を変な形で実行に移していました。
 飛行場の話に戻りますが、元々日本軍が使用していた時も水上機の基地だったそうでメインの滑走路は博多湾沿いの西側に海岸と併行した一本だけでした。そのメイン滑走路を取り巻くように舗装された外周道路が走っていました。その頃はまだロードレースの開催など夢の夢で「ここでレースが出来たら最高」と空想の世界の話でした・
・・・・・つづく・・・・・


  第6回7月10日























 第7回7月11日




























 第8回7月12日














 第9回 7月13日















 第10回7月16日

・・色んな思いや願望が交差しながらかなりの期間が経過したあと、吉村さんから私に連絡がありました。「近日、板付飛行場のサブ滑走路を使ってドラッグレースの開催許可が下りたようだ、日本人も参加できるように今副司令にお願いしとるけんねどうなるか分らんけど」いやーとてもうれしい朗報で大急ぎで参加の準備をといっていたら開催日はその週の日曜日に決まってしまいました。ぎりぎり日本人の参加は許可が出ていないということで、「当日OKのサインが出れば出場することにしましょう」で事前準備らしきことも無く仲間達と、過大な期待はしないほうが良いよねとか、悟りきったような話ばかりしていても、前日の土曜日の夜は若干興奮していたようです。
・・自分の車を持ち込むつもりでしたが仲間の一人が、若しドラッグレース参加がOKになったら僕のホンダで出てよ。車も新しいし、一番早いと思うから(それは本人の思い込み)そんなことからさらに困った宿題を与えられて大プレッシャーになりました。この時代のドラッグレースは、というよりアメリカ人が大好きな勝敗の決め方、タイムはあくまで参考であって2台同時スタートで400m地点で勝者フラッグを振られた車が勝ち残り、負けるとその場で敗退する勝ち抜きトーナメント制の競技進行で盛り上がりをつくっていました。
・・・つづく・・・   
                      
折角の機会ですから、単純な0〜400mのタイム計測の走行から競技として楽しむスタイルに変えた運営などについてもう少しお伝えします。先ずクラスがA・B・Cとかの区分で大まかな排気量に準じて分けられていました。ずっと後になってキチンと排気量で区分され、さらにストック(市販車のまま)とかモデファイド(改造機種)などかなり厳格なレギレーションになりました。出場台数も60台以下の時代では全部で6クラスだったと記憶しています。
 競技は小さいマシンから始められます。スタートラインに2台の車が並ぶと(間隔は約8m)中央にスターターが旗を持ち、ライダーに発進の準備を確認してから3・2・1・Goで旗を振り下ろします。(同時に計測係が2名でストップウォツチが押され、ゴール地点の通過フラッグでタイム計測)そこでクラッチを繋いで2台が同時スタートをします。勿論フライングスタートをするとやり直しになり2回フライングをすると失格になる厳しい規定がありました。
  ともかくスタートしてシフトアップしながら併走する相手のマシンが見えますから遅れていれば追いつきたい。少しでも先行していれば逃げ切りたい。しかしエンジンの音を聞きながら最も車速が上がる変速タイミングを待つしかありません。17秒〜18秒の勝負なのですがとても長く感じます。
各クラスごとに勝ち残った2台を残し予選を消化して、決勝レースの前に3位決定戦をしてから、各クラスの決勝レースを行います。出場台数によって表彰は2位までであったり3位までとしたり、運営スタッフは非番の兵隊さんが沢山動員されて、システムとしてとても上手くこなしていたようです。観客も基地に働く人や出場者の関係者や家族とスタートから300m地点くらいまでコースの両端に並んで応援がありました。
・・・・つづく・・・・
                     
板付飛行場でのドラッグレースの話が長くなっていますがこれらのレースまがいの事があとのロードレース開催に向けての助走期間のようなものです。
このドラッグも次第に門戸が開かれて100台以上の出場があるようになりました。参加料は不要でしたがたしか保険料700円を払っていたように記憶しています。参加車両が多くなると予選回数が増えるのは当然ですが、1回のシフトミスで敗れて予選落ちが沢山出るようになりました。何回か出場するうちに勝ち残る作戦も出てきます。予選では全力で走りきる事は避けて相手の車から10cmでもゴールを先に通過すれば勝者ですから、パワーを温存するようにします。そうしないと組み合わせによっては、直ぐ次の相手とスタートにつく事はいつもありました。1950年代の市販マシンですからやはり熱による影響があった事は否めません。2ストローク車はきわめて不利で走行回数を重ねるごとにタイムが悪くなるようでした。吉村氏はご存知かも知れませんが、この当時から熱ダレをすることから「2サイクルエンジンはエンジンじゃなかばい」と猛烈なアンチ2ストロークの旗手?でもありました。勿論POPの工場には2スト車両は出入り禁止のような約束はないのですが、乗り付ける人はいませんでした。
やがて、ドラッグにもCBが出場するような時代がきました。ヨシムラSPECIALが誕生するのはまだ先になりますが、いち早くヨーロッパ車のチューニングを手がけ、ドラッグ用のマシンに取り組んでいた事が国産250クラスのチューンの基礎になっている事は間違いありません。
                                                      
・・・つづく・・・

1950年代の後半までドラッグレースから始まった九州のオートバイ競技はさらにスクランブル(モトクロス)レースやクロスカントリーを模したものまで拡がりを見せていきました。吉村さん尽力でこの何年間の間で、米軍の組織九州タイミング・アソセーション(KTA)に日本人のクラブも加入して
レースへの参加を出来るだけ容易する事ができました。ただ雁の巣飛行場でのロードレース開催は軍の司令系統の違いから簡単に見通しがつかず先送りになっていました。ともかくレースであれば何でも参加しようと単純に走りたい一心でレースを追い続けていたと思います。当時の社会環境はバイクに乗っていることが少し誇らしげで、ましてレースらしきものへ参加しているとバイク仲間から一応の敬意を持たれたものでした。しかしドラッグレースの勝者になっても、何か物足りない気持ちで次第にドラッグレースから意欲が遠のいていくのを実感していました。人間とは勝手のもので何かに手が届くと次に手を伸ばします。今考えると随分いい加減な若者であったことは間違いありません。当時の模様を伝える写真なんかもあったのですが一時期オートバイと縁切りした頃に整理したようです。 ドラッグレースの写真が2枚ほどありました。
フライング姿勢は1年後くらいから禁止になりました。
入賞車の記念撮影だったように・・・私もいます。
                                             
 ・・・・・・・つづく・・・・・・

この頃、気心のあったバイク仲間と一緒になってクラブを結成しました。何をするにしても一人では出来ませんが、10数人も集まると各自それぞれ得意の分野があるもので、メカニック的な作業の上手な人、走りが一番に人、クラブ運営に長けた人、みんなの力を集めてレースに臨もうと気構えは十分でした。しかし全員がレース好きではありますが、その前にバイクが大好きでした。ツーリングなんかの希望も多いのですが、うちはレースチームだからとか、訳分らない理屈を言ってツーリングは殆ど出かけることはありませんでした。ミーティングと称して毎日集まり、知り合いになった米軍のライダーから持ち込まれた外誌をみて海外の情報に驚いていました。56年かあるいは57年かも知れませんが、吉村さんから連絡があって、「クラブの代表集まってやらんね、いい話があるけん」「やっと雁の巣飛行場の使用許可の見通しがついたよ」「開催はKTAになるけん詳細はまだ分らんけど」そんなお話でしたが、いい続けていたロードレースが出来るなんて凄いことになるぞとクラブのミーティングで一席ぶったような記憶があります。
 しかしレースが開催されるまでにはまた相当の期間があったようです。相変わらずドラッグレースが継続して開催されていました。出場車も本格的になり完全ストリップのリジットサスに変更されガソリンタンクの代わりに塩ビパイプを積んで前方から空気を導入して自然加圧?色んな工夫が凝らされて、コンマ以下のタイムを争うまでに進化していました。当初は国産大型車の定番だったキャブトンやメグロはすっかり影を潜めトラやBSAそしてBMWの外車勢に変わっていました。到底ストックマシンでは太刀打ちできるレベルではなくなってきました。

                                                   
・・・つづく・・・


 第11回7月17日



















 第12回7月18日 





































 
第13回7月20日




















 第14回7月23日

 昨晩、ミクシーを見ていられる方から連絡がありまして、結成していたチーム名とその由来についてお尋ねがありました。何故伏せているかといいますと、あまりにもつまらないと言うかいい加減な流れだったものですから・・・当時クラブ活動では八幡市(現在の北九州市)に清田さんが主宰する立派な大人の団体MAXクラブが設立されていました。来福される時もクラブ名の刺繍を施したお揃いのチョッキなんか着用されて凄いお金持ちのクラブだろうな仲間うちでささやいていました。我々も「名前付けんと可笑しいやろ、何か考えようや」ということで、ああでもないコウでもないと言いながら、結局はクラブMAXの印象が強いのか、負けん気か知れませんが、「英語3文字で最後にXで終わる単語で」そんな結論になりました。辞書を片手にXの欄を見ても逆引き辞書なんてありませんからそう簡単にドンピシャりのチーム名は生まれませんでした。「やっぱりスピードクラブとかにしたら」振り出しに戻りかけましたが、土壇場で「あったREXなら良かろうもん」と提案しましたが「言葉の意味は?」「決して悪い言葉じゃないよ」「3文字でXで終わる、ピッタリやない」実は辞書の内容の一番いい解釈で(ラテン語で高貴・王)片付けていました。
 今考えると噴飯ものですが・・・まだつづきがあります。早速シールを作ろうということになり、こればかりは素人では無理だと、丁度兄の友人の商業デザイナーに依頼しました。(こんな面では、すぐに背伸びして格好をつける)特別な価格で仕事をして頂きましたが、既にその頃反射する夜光シールが流行っていました。当然皆の意見は流行り物に傾きます。確か2倍くらいの価格差があったようですが、最低枚数200枚と言われても「心配ないね」と妙な英語調の日本語で片付けて、シールが届いた時には大喜びしました。単純な若者の集団でしょうか

                                          
・・・・つづく・・・

・・・紆余曲折がありながらもロードレース開催への機運は次第に盛り上がっているのは事実でした。何度も雁の巣飛行場に足を運び偵察と称して周囲から予備知識を詰め込んでいましたが、外から目視できるのは道路沿いの緩やかなコーナーだけです。この記事を読んでいただく皆さんには現代のローカル空港を連想してください。やはり飛行場ですから一番端っこのほうは、はるか彼方にあります。
 外周の周回路は全長で4.23kmほどあり1・1kmの直線(途中ドッグレグ)90度のクランクコーナーが2ヶ所、そして一部メイン滑走路を使うために約900mの直線、このストレートは曲者でした。ダート部分に(戦場で臨時に開設する滑走路に使う)3インチの孔空き鉄板が敷かれていました。色んな路面があっても、こんな鉄板の上を延々と走ることは想像もしていません。加えてこの穴開き鉄板が部分的に大きく波打ちそり返ってところがあります。
さらに継ぎ目が外れていたりしていて、上手く走るためには技術もさる事ながら度胸(九州人の好きな言葉)が必要でした。
 ただこの鉄板の直線はライダーの皆さんから不評で確か4回くらい使って中止し代替には、併行して走っているダートの直線と差し替えられました。鉄板直線は公開練習で使われると赤錆が取れてピカピカに輝くのです。これでは殆どタイヤのグリップを考える必要のないようなものです。しかもこの直線の終わりがコースで唯一のヘヤピンコーナーが待ち受けています。 
 練習を重ねると鉄板上の直線での走りは次第に習熟出来ますが、課題はヘヤピンの前のブレーキングでした。記憶ではコーナーの向こうには海があって失敗すると飛び込むのではと思ったりします。しかしこの直線の走行がタイムを縮めるポイントでした。
・・・つづく・・・
                     
 
  
 (地図上鉄板滑走路がクロスしていますがここは全く使っていません。左端の地道と記入されている部分と併行して
       鉄板で出来た誘導路が設置されいます。最初はその誘導路を使っていたわけです。


飛行場の周回道路は問題の鉄板を除くとあとは全て完全舗装で幅員はおよそ8mほどで高低差はゼロ。コーナーを含めてほぼフラットな状態でした。むしろレースを始めて全日本クラブマンレースの頃が一番コースのコンディションは悪くなっていました。あまり戦略上、重要な空軍基地でもないので使用許可が出た訳ですからオートバイレースのために補修などは到底望むことが無理でした。それでも米軍側のKTA関係者が自分達で出来る範囲の手入れを施しているようでした。そんなコースですから運用も大変だったと思います。
 先ずスタート位置も最初は北側の一番長い直線部分のほぼ中央に設定していきなり180R(通説的な数値)に飛び込んでいくことにしていましたが、何戦かのあと、ここは幅員が狭く出場台数によっては少し危険ではないかと意見が出て次には180Rを過ぎた緩いコーナーの前に変更しました。この位置はしばらく定着していました。問題点は残ってレースごとに基地司令の許可が下りないと開催は出来ないことは閉鎖まで続きました。そのことは許可を想定して予定をしていますが前々日に駄目になったり、突然前日にOKが出たりして殆ど準備が出来ないことでした。
 そんなことで公開練習が可能な時はチャンとプラクティスが行われ予選グリッドを決めていましたが、本番日だけOKの場合などは吉村さんから「外人はジャンケンは苦手やけん、トランプのカードを引いて・・」「13人しか決められん・・」「黒色を2枚入れて丁度15台になるけん・・それで決めるけんね」とこんな笑い話みたいな事もたびたびありました。当時不思議なことにあまりルールの変更などで自我が出るような人はいませんで、何とか円滑に運営出来ていたように思います。 
 またスタートの方式もエンジン停止押しがけスタートを原則にしていましたが、出場台数によってはエンジンは始動済み、変速ニュートラルの位置で右手を挙げてスタート合図を待つ方式も採用していました。

                                          
 ・・・つづく・・・

 雁の巣飛行場の背景について少し長い話になりましたが言葉だけ全容をお伝えするのは難しいですね。概略の図面を見て参考にしてください。ここでロードレースのレギレーションについて簡単に・・クラス分けは最初は125、250、500cc以内、排気量オープンの4クラスに分けられていましたが、50ccが2年後から加わり350ccも世界選手権並みに設けられました。参加する米軍ライダーも当初はヨーロッパ車の500ccを超えるものが中心でしたが、次第に日本車の中間排気量、すなわちホンダ250・305ccが手軽に米軍兵士に購入できるようになり、CBシリーズの発売とPOP吉村でのチューニングでロードレーサーに様変わりする事から一番人気のクラスになりました。特に350cc級はヨーロッパマシンの輸入も皆無であったことからほぼホンダCBのワンメークレースになっていました。
 また日本国内では免許制度が251ccを超えると自動2輪(現在の限定解除)免許が必要になり米軍は305、日本人は250寄りの傾向がみられました。2スト車は米軍ライダーには不人気で私の記憶では、ずっと後でYDS1が1台だけレース出場したようです。余談ですが、マシンを全てクロームメッキにして、通称オールメッキと呼んでいました。勿論マシンのチューンなどは全く手付かずで(ヤマハの販売店にチューナーがいない)戦闘力もありませんでした。2スト車の活躍はトーハツCA−2が発売されレース参加が出来るようになってからで、あわせて発売されたスポーツアローLD125の善戦があってからです。
 そのような背景から大排気量はアメリカ人?(米軍の兵士を総称してGIと呼んでいました)が乗り小排気量は日本のライダーが占める、そんな構成になっていました。
                                             
  ・・つづく・・・・・

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